横浜の豊顕寺と多米氏のこと (4) 時代と巡り会いの妄想
横浜市の三ツ沢にある豊顕寺の説明板にある、北条氏家臣の多米氏についての考察、第4弾です。
今回の記事は、横浜に城をもらった多米元興が隠棲して1551年に豊橋から横浜へお寺を移転していたとしたら、という仮定のもとで想像を膨らませる内容です。
(上記写真は横浜の豊顕寺の入口)
多米元興はお寺の移転に当たって、一度は横浜から豊橋へ出向いたと想像しても悪くはないでしょう。
そりゃあ相模国も武蔵国も戦乱のさ中ですが、多米元興は引退するのです。
1546年には河越夜戦があり、多米元興の息子の一人である多米元忠は華々しい活躍を見せています。
そこは記録として残っているようです。
北条軍トップ直下の5色の軍団のうちの1つ「黒」軍団のヘッドをつとめているのです。
『信長の野望』、多米元忠は北条氏康麾下の武将として登場します。
そんな自慢の息子を、元興はどこから見ていたのか。
横浜の青木城にいたのか、どこかの戦線にいたのか、あるいは既に引退して横浜は三ツ沢の地にいたのか。
いずれ息子が第一線で活躍するのを確かめて引退を決め、お寺のことに注力したかもしれません。
昔のざっくり地名で言うと、相模国から三河国へ行くには駿府を通らねばなりますまい。
その場合に、駿府の今川館に立ち寄った可能性が高いというか、スルーするほうが難しいかもしれません。
甲相駿三国同盟が成立するのは1554年のことですが、それに先立ち北条氏規(北条氏康の次男か5男か6男。諸説あり)が人質として駿府へ送られています。
正確な年は分かりませんが、北条家の娘が幼くてまだ嫁入りができないため氏規がまず人質に出されたという経緯があるので、1551年前後と考えてもおかしくはないでしょう。
北条氏の重鎮となった多米元興が、駿府で北条家の坊っちゃまを訪れたか、あるいは同盟・人質の準備として今川方と会談した可能性があります。
そもそも初代の北条早雲(伊勢盛時、宗瑞、新九郎)は、姉が今川氏に嫁いだ縁で駿府へ行った訳ですし、今川義元が当主となることを後押ししたのは2代目の北条氏綱でした。
そんな縁のある駿府で1551年、元興は松平竹千代(のちの家康)に会った可能性があります。
何しろ多米の里も三河にあった訳で、織田と今川の間で右往左往した三河の小勢力同士でした。
多米の里はいつしか豊橋で戸田氏の勢力に併呑されたようなのですが、その戸田氏は、幼い竹千代が人質に出されるときに一旦インターセプトして織田氏へ送ったのです。
その後、人質交換で竹千代が駿河に移送される際に、松平氏の家臣団の子弟も従者として数人が駿河へ同行しています。
<1551年時点での松平竹千代と家臣団@駿河>
・松平竹千代: 西三河の地方勢力のせがれ(今川視点)
・鳥居元忠: 松平家古参の家臣の子弟で、竹千代より3歳年上。約50年後の西暦1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦で犠牲の死を遂げる。
・平岩親吉: 同じく松平家古参の子弟で竹千代と同い年。のちに家康の長男の信康の教育係となるも信康は切腹とか、信長の命令で家康の伯父を斬らなければならなかったりとか、いろいろな辛苦を重ねた。
・酒井忠次: 同じく松平家古参の家柄。竹千代より15歳年上。のちに徳川四天王のリーダーすなわち徳川家臣団の筆頭となる。
さてこの酒井忠次は、1560年の桶狭間の戦いをきっかけに人質生活から開放されると、1564年に吉田城(豊橋の中心の城)を攻略し、豊橋を中心とする東三河の領土の統率を家康から任されます。
もちろん多米の里も含む領域です。
そういった情勢もあり、多米元興には駿府で今川義元、北条氏規、松平竹千代と家臣たちにそれぞれ会う動機がありました。
しかし1551年に駿府に立ち寄った多米元興(仮定)、戦国前期を駆け抜けた手練といえども、目の前にいる人物たちのそれぞれに待ち受ける壮絶な運命を予想はできなかったでしょう。
若いのに妙に落ち着いた地方勢力のせがれが、のちに全国統一を果たし260年近くにわたる政権を立てることになろうとは。
そして北条氏規ぼっちゃまと徳川家康はこの駿府の人質時代に意気投合し、のちの1590年に北条氏が壊滅した際に家康との縁で生き残ることになります。
さらに、大国の首領である今川義元がこの9年後の1560年、桶狭間で命を落としましたね。
以上、散歩の途中で見かけたお寺の説明文から想像を広げた話でした。
(今回の記事の写真はいずれも横浜の豊顕寺でした)
横浜の豊顕寺と多米氏のこと (3) お寺の移設の時代について
前回の記事で、動乱の時代を生きる父から子への思いという仮説をもって良い話のようにまとめたのですが、ここで再々度、豊顕寺の説明文を確認しましょう。
三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。
上記の真ん中あたりに
青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ッ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。
とあります。
えっ、先祖の菩提と郷里の人々の救済のために建てたはずのお寺を移設するの?
A. お寺が遠くてお墓参りが面倒になったから。
→ ないですよね。うん、ない。
B. お墓参りもお寺の維持も困難になった。
→ おそらく。お寺なんて滅多に、特に長距離移動はできるものではないはずです。そこには余程の事情があったと考えられます。
当時の情勢から、お寺の維持が困難になったと思われる背景を考えましょう。
お寺を移設した時期について、豊顕寺の説明文ではこのように書かれています。
元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。
最初に読んだときは、元興は1532年から1555年まで青木城にいてその後に隠棲したのだと思ったのですが、文章のとり方によっては1532年から1555年の間のいずれかの時期に隠棲したとも取れます。
江戸時代後期(1800年代)に編纂された文献『新編武蔵風土記』がそうなっているのですよね。
天文年中よりこの地の領主となりしゆへ、かの本國にありし本顯寺を當所へ引うつして名を豊顯寺と改めしとぞ
天文年間が憎い。当時としては長いほうで1532年から1555年まで24年間あり、記録に「天文年間」とだけ書かれるとだいたい1世代分の幅になってしまうよ。
それでもネットで調べて行くと、豊橋からの移設は1536年説と1551年説があることが分かりました。
どちらかが間違いの可能性もありますが、移設のフェーズが2段階あったとも考えられます。
1536年の豊橋付近がどんなことになっていたかというと、1529年に松平清康(家康の祖父)が岡崎方面から侵攻してきて一気に松平勢力になったと思いきや1535年の暮れに急死し("森山崩れ")、混乱していたことでしょう。
横浜でそのような状態を聞いていた多米元興がお寺の移設を考えるのも無理ありません。
一方、神奈川区史と横浜市史稿によると移設の年は1551年ということになっています。
今回、そちらの説を主に掘り下げてみます。
なぜなら、2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』に絡んでなかなか興味深いからです。すみません。
多米村は現在では豊橋市内になっていて、豊橋駅から東へ3~4kmの丘陵と谷戸の里です。
ピンポイントで1551年の豊橋の出来事をネットで見つけることはまだできていませんが、その年の前後で周囲の状況を見てみましょう。
1547年、松平竹千代 (のちの徳川家康)が今川家に人質に送られる途中、護送に当たっていた戸田氏が反転して織田氏へ竹千代を送る。
→この戸田氏の城が、多米の里に隣接する二連木城です。この当時、戸田氏と多米の里の関係はどうだったのかはネットで調べきれておりませんが、少なくとも1400年代末は対立関係にあったようです。1550年頃からこの近辺で活動していた戸田氏は「多米戸田氏」と呼ばれるようになっていて、一族が融合したか戸田氏が多米の里を領有したことが推測されます。・・・それがお寺の移転につながったと、自然に考えてしまいます。
1547年、織田信長と濃姫が結婚。いや多米村と直接の関係は無いけど、間接的には影響があります。
1548年、多米の里から少し西にある岡崎で、小豆坂の戦い(第二次)。
→ 織田 vs 松平・今川 とするのが従来の説ですが、松平はこの戦いよりも前に織田に降伏して織田方になっていたのでは、という説もあります。
で件の戸田氏はというと、前年の竹千代強奪(?)事件で今川義元がブチ切れ、田原城に拠る戸田氏は滅亡し、多米の里近くの戸田氏は今川に服属したようです。
信長と濃姫の結婚は織田と斎藤道三の同盟を表し、織田氏が三河で今川とぶつかる力を得たということになります。
いずれ、小豆坂の戦いは大勢において織田 vs 今川の戦いであり、位置的にその間にある松平氏や戸田氏をはじめ小勢力は「ええーー、どっちどっち?どっちに付けばいいの??」で揺れに揺れていたのは間違いありません。
1549年、前年の小豆坂の戦いの帰結として人質交換が行われます。大勢において今川が勝利し、竹千代は駿府へ送られました。
1551年、信長の父・信秀が死去し、尾張国は「うつけ」信長とその他の跡目候補で内紛が起こり混乱状態となります。これを見た今川氏はいよいよ尾張への攻勢を加速します。
ー と、二大勢力の間で混乱の三河地方なのでした。
この時代の多米の里の人々の具体的な動静が不明なのがもどかしいですが、お墓参りなんでできないどころか、お寺が荒れ果てて維持ができない状態だったのではないでしょうか。
現在、多米の里にあったらしき本顕寺は、その場所すらも特定できていません。
以上、横浜を散歩していたふと見つけたお寺の説明文から、2020年大河ドラマまでつながった話でした。
横浜の豊顕寺と多米氏のこと (2)
前回の記事では、横浜は三ツ沢の豊顕寺にある説明文から多米氏の足跡をイメージにしました。
もう一度説明文を載せましょう。
三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。
1行目はお寺の名称と宗派の説明ですのでここでは触れません。
問題は2行目です。
三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。
戦国時代、あるいは後北条的にアリなの?
ていうか、郷士って何?
→調べました:
郷士(ごうし)は、江戸時代の武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す
(Wikipediaより)
どうやら江戸時代の言葉のようです。おそらく多米氏は自分ではそう名乗らなかったと思います。「村の領主」みたいに捉えておけばいいですかね。
この時代の社会制度について詳しくは知りませんが、「多米村の郷士多米元興」とされた背景について想像の範囲で具体的な可能性をいくつか考えてみましょう。
A. 多米元興は相模国にいたが、本籍的なものは豊橋という自覚があり、寺を建てた。
→ かもしれない。ただ、元興がどこで生まれたのか不明だけれど、父親が相模国で何年も活動しており、息子にそれほど豊橋との結びつきがあったのか、そして誰が元興を「郷士」的な人物とみなしたのかは疑問が残ります。
B. 1515年時点で多米元興は豊橋にいた。寺を建てたあとで横浜に来た。
→ 父親である元益が相模国でめっちゃ忙しく戦っているのに、なぜ息子は豊橋にいて、その後横浜へ行ったのかが引っかかります。別の息子(たとえば兄など)が父親に付き従っていたが、死んでしまったので元興が相模国へ行った、等は可能性として考えられます。
C. 1515年に豊橋に寺を建てたのは、元興ではなく父親の元益のほうだった。
→ 伊勢盛時(北条早雲)との関わりから、元益と元興のおよその年代を考えるとこれがしっくりきます。村の領主階級だった人が別の土地で出世したけど、晩年に故郷の一族のためと先祖の菩提のために寺を建てたと。
D. 元益と元興は同一人物説。
→ 最初の説明文から、元興は少なくとも1555年までは生きていた (後日追記:説明文の解釈により、1555年まで生きていたとは限らない)。一方、伊勢盛時が駿河の今川氏を訪ねたのが1487年で(1476年説もあり)、元益がそれに自分の意思で同行しているっぽい話もあるので、同一人物ならかなり長生き?ざっと80歳以上になる?大丈夫?(後日追記:説明文の解釈により、天文年間の始めまでは確実に生きていいたことは言える。1532年。微妙ですね)
E. 元益が息子の元興の名義で寺を建てた。
→ 伊勢盛時について行ったらどえらい展開になったけど、ぼちぼち自分も伊勢盛時の寿命も尽きるし時代はどんどん混沌としてきたから、息子と郷里とのパイプを確実にしておきたい。お寺を作って多米村の人々を救うのは、相模で活躍している多米元興ですよと。
Eであってほしいなあ。にわかにEのような気がしてきた。
動乱の時代で父から子に託した思い。
主観的にはこれです。
よし、妄想歴史物語としてはよい形にまとまった。
と言いつつ、まだ気になる部分もあり、興味のおもむくままに次の記事で書きたいと思います。
写真は、とある日の豊顕寺の横の公園です。
気持ちの良い三ツ沢の丘からの眺めです。
お寺の敷地はこの写真の左側になります。
<後日注>
・現在の横浜市は相模国と武蔵国の境目で両方あり、表記が紛らわしい部分もありますが、雰囲気で読んでいただければ幸いです。ちなみに、横浜駅付近の青木城と豊顕寺は武蔵国領域になります。一方、草創期の後北条勢力が最初に取ったのが相模国領域です。
・北条早雲、伊勢盛時、伊勢新九郎・・・同一人物ですがこの他にも様々な呼び名があります。ここでは伊勢盛時としました。
横浜の豊顕寺と多米氏のこと (1)
史跡にある説明を読んで、そのときは分かった気になるけれども、再び訪れて同じ説明を読むとまた「ふーん」と同じことを分かった気になる。
つまり理解していないのです。
文章が悪いのではありません。
その場では文章として理解した気になっていても、文章の中にある複数の要素が頭の中で結びついていなくて、場所を離れるとバラバラになってしまうのです。
せいぜい僅かに一つか二つの、印象に残りやすい単語が頭の片隅に残る程度になります。
まさにその例が、横浜市の三ツ沢にある豊顕寺(ぶげんじ)の説明でした。
いわく、
三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。
(前半部分。後半は江戸時代以降のことなので割愛)
文章に破綻はなく、構造にややこしい部分もありません。
にもかかわらず、私はここへ来て4度か5度はこれを読み、毎回「ふーん」となっていたのでした。
このたび、やっと掴めた気がしたので喜びお伝えする次第です。
豊橋から来た多米氏は、
元益 → 元興 → 長宗
と世代が移行したことが上記の文章からは読み取れます。
それじゃあ、こういうことかな?
I. 出会い
II. 世代交代
多米元益 → 多米元興
多米元興、横浜駅近くの青木城をもらう。
III. 世代交代
多米元興 → 多米長宗
多米元興、青木城を長宗に託して、横浜駅から2kmぐらい離れた三ツ沢に寺を建て(豊橋から移設)隠棲する。
IV. 多米長宗、三ツ沢付近の領地をお寺に寄進する。
説明文から、破綻していないイメージはこれでよし。
うむ、このような捉え方で行こう。
と思ったのですが、ネットで調べると多米元益と元興が同一人物だったり、元興とその息子が同一人物とみなされていたり、元興の息子が複数いるようにも見えるけれども同じ人物と捉える組み合わせが複数あったりと、もうしっちゃかめっちゃかでドツボにはまりました。
上記に挙げた3代は、誰一人として正確な生没年が分からないんですね。
(その理由は、最初の写真で割愛した、江戸時代以降の火災や地震で檀林が途絶えたことが大きいと思われます)
まあ、やっと豊顕寺の歴史のイメージは掴めたので一旦ここで区切りまして、2020年の私の連休はこれでいいのです。
その他の気になった点は別の記事で改めて考察してみます。