【想像】金森長近と土岐一族、そして本能寺の変
登場する武将は2000人ほどというゲーム『信長の野望』には登場するが、小説やドラマにはなかなか登場しない金森長近さんについて、前回のダイジェストを書きながら想像の翼が広がりましたので記します。
はい、これは想像の記事です。すみません。
想像が広がって収拾がつかない勢いだったのが歴史的大事件・本能寺の変です。
なぜなら首謀者が明智光秀だからです。
金森長近は、土岐一族でした。
そしてご存知のとおり、明智光秀も土岐一族とみなされています。
本能寺の一方に接した長近の脳裏を駆け巡ったのはどのようなことだったのか ー
時を戻そう。
長近は1524年に多治見あたりで生まれました。
その頃、美濃国守護である土岐氏は土岐頼芸(よりのり)とその兄・土岐頼武が家督を争い、1525年から27年にかけて美濃国内で戦闘が起きています。
長近さんの父・定近さんは頼武を支持し、最終的に頼武さんが敗北したのです。
こうして長近さんは生まれて間もなく土岐一族の内紛に巻き込まれ、一家は南近江の金森という地へ移住します。
ー ということがありまして。
一方、明智光秀は頼芸サイドでしたよね、大河ドラマ『麒麟がくる』によると。
前半生が謎に包まれているとはいえ、歴史の表舞台に出てからは水色の桔梗紋をはためかせて土岐一族を名乗っています。
すなわち、長近と光秀は、同じ織田信長の下にいながら土岐一族の中では敵同士だったことになります。
光秀が、主君である信長を討った?
しかも長近の嫡男まで巻き添えで殺された?
本能寺の一報に接したとき、驚愕と同時に他の感情も走ったのではないかと、このような背景を知るにつけ想像してしまうのです。
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
とか言ってんじゃねーよ!
なんて、おそらく本能寺の時点で長近さんはその歌を知らなかったでしょうけど。
さて次に、長近さんが土岐氏をどう思っていたのかを考えました。
織田信秀に仕官したときからその後も、土岐氏を名乗らなかったと想像します。
というのも、ごく数十年前まで金森氏の先祖は不明だったからです。
あの『街道をゆく』で飛騨高山について書かれた部分があるのですが、そこで紹介された長近の血筋は不明で、織田家中の有象無象の者どもの一人ということになっているのです。
司馬遼太郎氏が飛騨高山を取材したのは1986年で、その後に研究が進んだと思われます。
あれだけ織田・豊臣・徳川と上手くやった人の血筋がごく最近まで不明で、むしろ謎の多い明智光秀が桔梗紋を引っさげているのは不思議ではありませんか。
厳密に出自を隠すほどではなかったが、自ら名乗ることはなかったと推察します。
織田信秀に仕官するときも、
「南近江の金森郷からきました、金森と申します」
ぐらいの自己紹介だったのではないでしょうか。
尋ねられたら
「先祖はよく分かりませんで」
と。
文武両道ハイパー文化人なので、土地の方言に順応するのは早かったと思われます。
ドラマだったら、1527年の戦乱の多治見で片や故郷を出て行く者、片や新しい支配層として一瞬だけ幼い光秀と長近が相見えるシーンを入れたいところです。
明智光秀の生年が諸説ありすぎてそこから難しいですが。
(写真は東濃地方の栗どらです。お納めください)