歴史の小径

食ブログで書ききれなかった歴史と散歩の話

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (2)

前回の記事では、横浜は三ツ沢の豊顕寺にある説明文から多米氏の足跡をイメージにしました。

もう一度説明文を載せましょう。


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当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

 

1行目はお寺の名称と宗派の説明ですのでここでは触れません。

 

問題は2行目です。

 

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。

 

横浜に城をもらう人が、同時に豊橋郷士ってありうるの?

戦国時代、あるいは後北条的にアリなの?

 

ていうか、郷士って何?

→調べました: 

 郷士(ごうし)は、江戸時代武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す

(Wikipediaより)

 

どうやら江戸時代の言葉のようです。おそらく多米氏は自分ではそう名乗らなかったと思います。「村の領主」みたいに捉えておけばいいですかね。

 

この時代の社会制度について詳しくは知りませんが、「多米村の郷士多米元興」とされた背景について想像の範囲で具体的な可能性をいくつか考えてみましょう。

 

A. 多米元興は相模国にいたが、本籍的なものは豊橋という自覚があり、寺を建てた。

→ かもしれない。ただ、元興がどこで生まれたのか不明だけれど、父親が相模国で何年も活動しており、息子にそれほど豊橋との結びつきがあったのか、そして誰が元興を「郷士」的な人物とみなしたのかは疑問が残ります。

 

B. 1515年時点で多米元興は豊橋にいた。寺を建てたあとで横浜に来た。

→ 父親である元益が相模国でめっちゃ忙しく戦っているのに、なぜ息子は豊橋にいて、その後横浜へ行ったのかが引っかかります。別の息子(たとえば兄など)が父親に付き従っていたが、死んでしまったので元興が相模国へ行った、等は可能性として考えられます。

 

C. 1515年豊橋に寺を建てたのは、元興ではなく父親の元益のほうだった。

 → 伊勢盛時(北条早雲)との関わりから、元益と元興のおよその年代を考えるとこれがしっくりきます。村の領主階級だった人が別の土地で出世したけど、晩年に故郷の一族のためと先祖の菩提のために寺を建てたと。

 

D. 元益と元興は同一人物説。

 → 最初の説明文から、元興は少なくとも1555年までは生きていた (後日追記:説明文の解釈により、1555年まで生きていたとは限らない)。一方、伊勢盛時駿河の今川氏を訪ねたのが1487年で(1476年説もあり)、元益がそれに自分の意思で同行しているっぽい話もあるので、同一人物ならかなり長生き?ざっと80歳以上になる?大丈夫?(後日追記:説明文の解釈により、天文年間の始めまでは確実に生きていいたことは言える。1532年。微妙ですね)

 

E. 元益が息子の元興の名義で寺を建てた。

 → 伊勢盛時について行ったらどえらい展開になったけど、ぼちぼち自分も伊勢盛時の寿命も尽きるし時代はどんどん混沌としてきたから、息子と郷里とのパイプを確実にしておきたい。お寺を作って多米村の人々を救うのは、相模で活躍している多米元興ですよと。

 

Eであってほしいなあ。にわかにEのような気がしてきた。

動乱の時代で父から子に託した思い。

主観的にはこれです。

 

よし、妄想歴史物語としてはよい形にまとまった。

 

と言いつつ、まだ気になる部分もあり、興味のおもむくままに次の記事で書きたいと思います。

 


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写真は、とある日の豊顕寺の横の公園です。

気持ちの良い三ツ沢の丘からの眺めです。

お寺の敷地はこの写真の左側になります。

 

<後日注>

・現在の横浜市相模国武蔵国の境目で両方あり、表記が紛らわしい部分もありますが、雰囲気で読んでいただければ幸いです。ちなみに、横浜駅付近の青木城と豊顕寺は武蔵国領域になります。一方、草創期の後北条勢力が最初に取ったのが相模国領域です。

北条早雲伊勢盛時伊勢新九郎・・・同一人物ですがこの他にも様々な呼び名があります。ここでは伊勢盛時としました。