歴史の小径

食ブログで書ききれなかった歴史と散歩の話

毛利元就ダイジェストを書いて気がついたこと

今回の記事は、前回の記事で初めて歴史上の人物のダイジェストを書いてみて気がついたことあったので、それを書き留めるものです。


毛利元就をほとんど知らない人間が簡略な生涯なんて書いてしまってファンに怒られないかなとおそれつつ、様子をみております。


<気がついたこと>
・削るのが一番大変
・焦点を絞らざるを得ない

 

毛利元就さん、ボリューム大です。


特に、生涯で戦は大小無数にあった訳で、それはもう書ききれないので5つほどに絞りました。しかも勝敗の結果しか書いていません。

智将や謀神と呼ばれた元就なので、1回の戦でも膨大な描写になり得ることでしょう。

また、戦と戦の間にも謀略の伏線が張られていたことでしょう。

戦を書かずして毛利元就は語れないという向きもあるかもしれません。そうかもしれない。


登場人物も絞りました。家族と、敵対勢力の当主と、あとは腹心の志道広良さんのみです。

江良さんや山中鹿介は出したい気持ちもありました。


結局、家族をメインにしました。 


家族関係を見るだけでも、すさまじい生涯だったことが分かります。
3歳で実母と死別し、10歳で実父が、そして唯一頼りにしていた兄まで元就が20歳のときに亡くなり、最も近しい肉親を幼少~少年~青年期に相次いで喪った訳です。
サバンナの真ん中に放り込まれたような状態です。
しかも、守らなければならないのは自分の命だけではありません。幼い甥っ子と毛利家と家臣たちを、巨大な勢力の狭間で守らなければならない。頼れる肉親を全て亡くした状態で。


というのが前半生で、結婚して子供ができてから、そりゃもう子供を可愛がったんだろうと思います。
嫡男の隆元には2度も隠居を止められて、言うこと聞いてますからね。
さらに、陶氏と袂を分かつ段では自分の意見を引っ込めて隆元の方策を採用しましたね。
隆元が突然死去したときは我を忘れるほどショックを受けました。
他家に養子に出したはずの次男・三男も結局は我が家の子に、家ごとなっちゃいましたからね。「毛利両川」って、ねえ。


だからもう、孫の輝元をどれだけ愛したか。
当時の平均ではとっくに寿命が尽きた年齢でも、輝元が「隠居しないで」とお願いすれば聞き入れちゃうんですよ。


もしタイムトラベルできるなら、元就さん家の縁側で、孫がどれだけ可愛いか話すのをひたすら聞いていたい。


生涯をまとめた結果、そんなことを思いました。


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毛利元就ダイジェスト

東日本の人間であるせいか、毛利氏について詳しく知りません。

 

本能寺の変のあたりで、毛利氏はなんか大きい西日本の勢力だったなと思っています。

 

このような毛利氏についての認識を1段階深めるため、毛利元就の生涯をダイジェストでまとめてみます。

 

シンプルに感覚で把握することを優先しました。

※ほんとは幼名とかあるけど「元就」として統一します。

※諸説あります。

 

--

1497年 吉田郡山城で生まれる。

吉田郡山城広島県にあるが海から遠く離れていて、瀬戸内海と日本海の真ん中ぐらいの山の中にある。
当時のそのあたりは大内氏と尼子氏の大勢力に挟まれた小勢力がいくつかあった。
毛利氏もその1つ。

 

応仁の乱は収束していたが、大内氏 vs 室町幕府の構図があり、毛利氏も大内氏に協力する形で巻き込まれた。
しかし大内氏には義理で味方していたので、あんまり忠誠心はなかった。


元就の父親は大勢力の狭間で苦労し、早々に隠居したと思ったら死んでしまった。元就まだ10歳。

隠居した場所で父親と共に暮らしていた元就だったが、家臣に裏切られて追い出されてしまう。

このとき元就の兄は14歳で、京都に駐在していた。

元就は養母(実母は元就が3歳の頃に死去)に生活を支えられてなんとか生きた。

ちなみに父親の死因は酒の飲みすぎと言われている。

 

養母と兄の力添えで元就は14歳のときに元服した。

毛利家の当主は兄であり、元就は分家の立場である。

 

ところが元就の元服の5年後ぐらいに兄が急死する。

原因はこれも酒の飲みすぎと言われている。

 

毛利家の家督は兄の嫡男が継いだが、幼少のため、叔父にあたる元就が後見人となった。

 

この毛利家の動揺を突いて安芸武田氏(近くの小勢力)が吉川氏(そのあたりの小勢力)を攻撃してきた。

毛利・吉川連合軍は安芸武田軍と激突し、勝利を収める。(有田中井出の戦い: 1517年)

なにげにこれが元就の初陣だったが、一気にその声望は広まった。

 

明確な時期は特定されていないが、この戦いの後に元就は吉川氏の娘と結婚する。

後のことになるが、この妻との子がいわゆる「三本の矢」となる。

 

そうこうしているうちに、後見していた甥っ子が9歳で死去してしまう。

毛利家の間では反対意見もあったようだが、なんだかんだで元就が当主になった。このとき27歳(1523年)。

志道広良(しじひろよし)というめちゃ有能で忠誠心のある家臣が元就を推挙し当主へ導いたと言われている。元就より30歳年上である。

 

元就が当主となった時点で、利益の合わない家臣もいたが、けっこう粛清された。

また、当主となった時点では元就は尼子氏サイドに就くことを決めたが、関係者の処遇などを巡り次第に不信感を募らせた。

 

まだ生き残っていた安芸武田氏の動きをきっかけに、尼子氏と大内氏広島市内の佐東銀山(さとうかなやま)城の戦いで激突した(1524年)。

元就は尼子サイドとして参戦する。

大内サイドは当主とともに重臣の陶(すえ)氏が参戦した。

この戦いは大内サイドの勝利となったが、陶氏は元就の有能さを知り、大内家当主に元就を味方に引き入れることを進言したと言われている。


この戦いの翌年、元就は大内側に就くことを明確にした。


1529年、大内当主・義興死す。息子の大内義隆が継ぐと、毛利氏をさらに厚遇した。
元就は大内氏の下で尼子勢力を切り崩して行く。


特に、毛利家の元家臣であった高橋氏が離反して尼子サイドになると、元就は高橋氏を滅ぼした。これにより大きな領地を得た。

 

元就の活躍により大内氏は勢力を伸ばして行く。

大内義隆は元就を幕府に取り次ぎ、元就は官位を得た。


1537年、元就は嫡男・隆元を大内家の人質に出す。
隆元、山口の大内家ですごい厚遇され大内文化に染まる。


1542~43年、大内 vs 尼子で第1次月山富田城の戦い。
月山富田城は尼子領。難攻不落であった。

元就を含む大内軍は大敗した。


1544年、元就は三男・隆景を小早川氏へ養子に出した。

 

1545年、元就の妻と養母が相次いで亡くなる。

 

1546年、元就は隠居を表明したが、嫡男・隆元は隠居しちゃ嫌だって言うし、とりあえず形だけみたいになった。

 

1547年、元就は次男・元春を吉川家へ養子に出した。

 

小早川家、吉川家とも多少のゴタゴタを経て「毛利両川体制」が確立した。


一方、大内家の当主・大内義隆月山富田城の敗戦以来やる気をなくしていた。
大内重臣陶晴賢は困った。
陶晴賢大内義隆を討つことにした。

 

1551年、大内義隆陶晴賢に攻められて切腹

このとき元就は陶のサイドに就いていた。

この事件を機に元就は勢力を拡大する。


大内氏の実権を握った陶晴賢と元就は共同戦線を張るかと思いきや、どんどん勢力を拡大する毛利氏に対して陶氏は「えっ」てなる。

そんなところに石見地方の小勢力で陶サイドだった吉見氏が、陶氏に反旗を翻した。

毛利家は会議の結果、吉見サイドで参戦することにした。

なるほど嫡男・隆元は大内義隆にすごい世話になったのに陶晴賢が殺してしまったので、陶氏と袂を分かつことを主張したのだった。

 

そのころ小早川氏は首尾よく村上水軍を味方に付けた。


1555年、厳島の戦い。かなり怒った陶氏と毛利氏の戦いである。
毛利氏が厳島の城である宮尾城を持っていて、小早川氏と組んだ村上水軍が毛利の味方に駆けつける。
陶晴賢は追い詰められて切腹した。

 

1557年、一応大内氏の当主であった大内義長を元就が討ち、大内氏は滅亡した。

元就は息子たちと共に大内氏の領地を平定した。


元就の有能な家臣・志道広良は、大内氏領地の平定を見届けて死す。91歳であった。

そういえば元就も61歳になっていた。


元就、今度こそ本当に引退するって言う。
嫡男・隆元、だめって言う。
元就、一旦引退を取り下げる。


ここで三本の矢の話である。逸話だが。


ところで尼子氏はまだ滅びていなかった。石見銀山を持っていた。
元就は尼子義久と和平を結び、石見銀山を使えるようになった。しかしあっさり石見銀山を占領した。


一方嫡男・隆元は、大友氏との和睦をまとめた。
しかしその後、1563年に謎の死を遂げる。
元就、ショックで死のうとしたし疑心暗鬼になって何人か殺した。


周囲の説得で自殺を思いとどまった元就、尼子氏討伐に気力を捧げる。

 

隆元が死亡したときその嫡男(のちの輝元)は11歳であり、またしても元就が後見することになった。

 

1565年、毛利輝元吉田郡山城元服した。

輝元の「輝」は当時の将軍・足利義輝から拝領したものである。すなわち幕府から地方の支配者として認められたのだった。

 

1565~66年、第2次月山富田城の戦い。

第1次で手痛い敗北を知っている元就は、周到な籠城戦を展開した。

元就70歳、戦場で勝利した。

ここに尼子氏は滅亡した。


1567年、元就は隠居しようとしたが、やっぱり孫の輝元(15歳)がすごくお願いして止めた。

おじいちゃん、隠居をあきらめた。

 

元就は最後まで戦い続け、1571年に病気か老衰で死んだ。

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<参考資料>

Wikipedia 毛利元就

Youtube

毛利元就 前編 ゆっくり戦国武将解説

https://www.youtube.com/watch?v=JHfhqim2Pv4

 

・毛利毛利元就の歴史まるわかり年表!簡単にザーっとまとめました

https://yururito-sengoku.com/mourimotonari/mourimotonarinenpyou.html

毛利元就年表

http://www.028028.com/m_nenpyo.htm

 

 


 

 

隅田川・荒川・江戸川ってどういう位置関係?(2) 完結

前回(1)の続きです。今回で散歩は完結します。

旧中川・荒川・中川と連続して東へ越えた先が江戸川区なんですね。

気がつけば江戸川区・船堀に来ていました。

 

荒川・中川を渡ったら、船堀から東へ伸びる新川を辿って江戸川を目指すのでした。

東西方向の水路は、荒川・中川を境に小名木川から新川へバトンタッチです。

 

船堀という地名はその新川があるため、船が出入りする堀という意味から来たらしいです。


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新川、なんかいいじゃん。


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しかし水たっぷりすぎない?

そりゃ大都市・東京の歴史ある地域だから対策はしてあるのでしょう。

たゆたう水と水辺の美しさは、今回辿ったコースで随一でした。


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江戸時代から明治・大正に至るまで、水路沿いにお店が出て賑わっていたのですね。


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昭和に入ると船は使われなくなり、

さらに高度経済成長期に地盤沈下して一旦人々の生活から遠ざかった。

しかし、平成に入ってから整備して今の姿になったと。


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新川の東端は、江戸川に合流していると思いきや、土管から水が流れ込む風景でした。

何らかのハイテクな技で水を制御しているのでしょう、たぶん。

 

しかも新川の東端は、江戸川だと思ったら旧江戸川でした。

存分にデカい川ですが、ほんまもんの江戸川と違うのですか。


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そこからまっすぐ東へ渡る橋がなかったので、少し北上して、一旦新中川を渡ってから旧江戸川を渡ります。ややこしい。
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瑞穂大橋の地点で新中川と旧江戸川が合流します。

瑞穂大橋で新中川を渡ってすぐに新大橋で旧江戸川を渡ると、


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えっ


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えっ千葉?

もう?


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てっきり、この先にある江戸川を渡った先が千葉だと思っていました。

だって「江戸川」ですよ?

この散歩で一番の衝撃でした。


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旧江戸川を横目に見つつ少し辿りつつ、行徳を目指します。

行徳は江戸時代の塩の集積地であり、河川と運河を利用して江戸のほうへ運んだらしいです。

 

行徳駅前はあまり塩っぽいものは見られませんでした。


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行徳を過ぎ、あとは本ちゃん(「旧江戸川」に対して)の江戸川を渡れば今回の旅も目的は達成です。


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どの道を辿るのがいいのかな?

スマホで地図を確認すると、気になる道がありました。


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この細かい折れ曲がりはあやしいですぞ。


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お寺や神社と住宅の合間の細い道が折れ曲がって続いていました。

こういうのが見たかった。

お寺がずいぶん多いのです。

 

途中で解説の看板がありました。


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家康公が鷹狩に行くときに立ち寄った、という伝承ですと。

そして、江戸時代初期はこのあたりがメインストリートであったと考えられると。


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江戸時代初期、ということは、さらに時代がすすんでそれこそ河川が整備されいよいよ水路の役割を担うようになると、街の中心はもっと川沿いに近づいたのかな?

 

などと考えつつ、いよいよ江戸川を渡ります。

その名も行徳橋でした。


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橋に並行して可動堰があり、巨大メカっぽくてカッコよかったです。


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↓これが江戸川(行徳橋から上流方向、可動堰の逆)だ。

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という訳で江戸川を渡りきり、最寄りの本八幡駅から電車に乗ろうとしたら、行徳橋と本八幡の間に高速道路が複雑に通っていてなかなか辿り着けませんでした。

 

最後でタイムアップが迫ってきて、回り道して3kmほど走り続けました。

20km以上歩いてからの3kmダッシュで、

「私けっこういけるじゃん」

と思いつつ、本当は本八幡の街をもっと見たかったと後ろ髪を引かれつつの帰投となりました。

 

水路も高速道路も複雑、これが現代の東京湾岸です。

水路なんかは江戸時代の直前から、網の目のような河川と湿地帯を考えて制御して管理して、もしかしたら日本の河川の特徴を鑑みると世界で一番の蓄積と緻密さがあるのかもしれない、などと考えつつ。いや実際に考えたのは帰宅後ですけれども。

 

そのような散歩でした。

 

 

隅田川・荒川・江戸川ってどういう位置関係?(1)

2020年の暮れ、用事のついでに歩いてみました。

これから書くことは、当該地域に住んでいる人にとっては片腹痛いもので、「知らなかったの?」と逆に驚くこともあると思います。

自分自身、横浜という遠くない所に住みながらこんなにも分かっていなかったのかと愕然としました。

 

隅田川・荒川・江戸川は東京湾に注ぐと思うけれど、どのように並んでいるのか?

江戸時代に下町と呼ばれたあたりの河口付近を歩いてみようではないか。

 

という訳で、歩いた順番をもうここに書いちゃいます。

 

隅田川 → (東西方向に伸びる小名木川を辿る) → 旧中川 → 荒川 → 中川 → (東西方向に伸びる新川を辿る) → 旧江戸川 → 江戸川

 

なんか、シンプルに3本の川を渡ることを想定していたら、中川というやつが新しく加わり、さらに新とか旧とかそれぞれの川に付いていて、たいへんでした。

 

まずは隅田川を渡り東へ向かいます。
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この日は清洲橋を渡りました。

 

清洲橋の近くに江戸時代、東のお米や塩などを江戸へ運ぶために東西方向に掘った小名木川という運河がありまして、せっかくなので辿ります。

小名木川隅田川に合流する近くにある萬年橋もかっこいい。


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下の写真は萬年橋から見た、小名木川隅田川の合流地点です。
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ちなみにここから1kmぐらい隅田川を北へ上ったあたりが両国で、江戸時代は武蔵と下総の国境だったから「両国」といったらしいですね。

どう見ても東京の真ん中やろと、今から見るとそういう場所ですね。

 

両国に近いからでしょう、高田部屋と尾車部屋小名木川沿いにありました。


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相撲部屋ってなんとなく和風建築をイメージしていたのですが、どちらの部屋もキュービックなマンション風でした。さすが都会です。

小名木川はキュービックな都心の建物の間を流れます。

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東西方向に伸びる小名木川を辿っていると、南北方向に有名な河川以外の水路もあって、クロスしたりするんですね。


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水門があったりして、なるほど水位を調整して街が守られているのですね(ざっくりとした理解)。


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ずんずどんどん東へ歩きます。
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てくてく


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川のまっすぐさも住居の形も、四角くすると一番効率がいいよね、これが都心なんだね、と考えながら


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やっと小名木川の西端です。

ここで旧中川と合流します。


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この地点に中川番所があったそうです。


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この旧中川を渡って土手を越えると、The 荒川となります。


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大河なり、荒川。

船堀橋のたもとより。
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さらに驚くことに、荒川のすぐ東を中川が並走しているのです。


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川たち何やってるの?

荒川と中川が併走しているところをうまく収められなかったのですが、下の写真は中川、右側の高速道路の向こうが荒川です。


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今回歩いてみてつくづく江戸は水都だと感じた訳ですが、この川の絡み具合は絶えざる治水事業の結果なのでしょう。

 

川は昔からそこにあったように見えるけれど、紆余曲折がありました。川だけに。

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (4) 時代と巡り会いの妄想

横浜市の三ツ沢にある豊顕寺の説明板にある、北条氏家臣の多米氏についての考察、第4弾です。

 

今回の記事は、横浜に城をもらった多米元興が隠棲して1551年に豊橋から横浜へお寺を移転していたとしたら、という仮定のもとで想像を膨らませる内容です。


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 (上記写真は横浜の豊顕寺の入口)

 

多米元興はお寺の移転に当たって、一度は横浜から豊橋へ出向いたと想像しても悪くはないでしょう。

 

そりゃあ相模国武蔵国も戦乱のさ中ですが、多米元興は引退するのです。


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1546年には河越夜戦があり、多米元興の息子の一人である多米元忠は華々しい活躍を見せています。

そこは記録として残っているようです。

北条軍トップ直下の5色の軍団のうちの1つ「黒」軍団のヘッドをつとめているのです。

信長の野望』、多米元忠は北条氏康麾下の武将として登場します。

 

そんな自慢の息子を、元興はどこから見ていたのか。

横浜の青木城にいたのか、どこかの戦線にいたのか、あるいは既に引退して横浜は三ツ沢の地にいたのか。

 

いずれ息子が第一線で活躍するのを確かめて引退を決め、お寺のことに注力したかもしれません。


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横浜から豊橋へ行く場合、ほぼ確実に静岡市を通ります。

昔のざっくり地名で言うと、相模国から三河国へ行くには駿府を通らねばなりますまい。

 

その場合に、駿府の今川館に立ち寄った可能性が高いというか、スルーするほうが難しいかもしれません。

 

甲相駿三国同盟が成立するのは1554年のことですが、それに先立ち北条氏規(北条氏康の次男か5男か6男。諸説あり)が人質として駿府へ送られています。

正確な年は分かりませんが、北条家の娘が幼くてまだ嫁入りができないため氏規がまず人質に出されたという経緯があるので、1551年前後と考えてもおかしくはないでしょう。

 

北条氏の重鎮となった多米元興が、駿府で北条家の坊っちゃまを訪れたか、あるいは同盟・人質の準備として今川方と会談した可能性があります。

 

そもそも初代の北条早雲(伊勢盛時、宗瑞、新九郎)は、姉が今川氏に嫁いだ縁で駿府へ行った訳ですし、今川義元が当主となることを後押ししたのは2代目の北条氏綱でした。

 

そんな縁のある駿府で1551年、元興は松平竹千代(のちの家康)に会った可能性があります。

 

何しろ多米の里も三河にあった訳で、織田と今川の間で右往左往した三河の小勢力同士でした。

多米の里はいつしか豊橋で戸田氏の勢力に併呑されたようなのですが、その戸田氏は、幼い竹千代が人質に出されるときに一旦インターセプトして織田氏へ送ったのです。


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その後、人質交換で竹千代が駿河に移送される際に、松平氏の家臣団の子弟も従者として数人が駿河へ同行しています。

 

<1551年時点での松平竹千代と家臣団@駿河

・松平竹千代: 西三河の地方勢力のせがれ(今川視点)

鳥居元忠: 松平家古参の家臣の子弟で、竹千代より3歳年上。約50年後の西暦1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦で犠牲の死を遂げる。

平岩親吉: 同じく松平家古参の子弟で竹千代と同い年。のちに家康の長男の信康の教育係となるも信康は切腹とか、信長の命令で家康の伯父を斬らなければならなかったりとか、いろいろな辛苦を重ねた。

酒井忠次: 同じく松平家古参の家柄。竹千代より15歳年上。のちに徳川四天王のリーダーすなわち徳川家臣団の筆頭となる。

 

さてこの酒井忠次は、1560年の桶狭間の戦いをきっかけに人質生活から開放されると、1564年に吉田城(豊橋の中心の城)を攻略し、豊橋を中心とする東三河の領土の統率を家康から任されます。

もちろん多米の里も含む領域です。


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そういった情勢もあり、多米元興には駿府今川義元北条氏規、松平竹千代と家臣たちにそれぞれ会う動機がありました。

 

 

しかし1551年に駿府に立ち寄った多米元興(仮定)、戦国前期を駆け抜けた手練といえども、目の前にいる人物たちのそれぞれに待ち受ける壮絶な運命を予想はできなかったでしょう。

 

若いのに妙に落ち着いた地方勢力のせがれが、のちに全国統一を果たし260年近くにわたる政権を立てることになろうとは。

 

そして北条氏規ぼっちゃまと徳川家康はこの駿府の人質時代に意気投合し、のちの1590年に北条氏が壊滅した際に家康との縁で生き残ることになります。

 

さらに、大国の首領である今川義元がこの9年後の1560年、桶狭間で命を落としましたね。

 

 

以上、散歩の途中で見かけたお寺の説明文から想像を広げた話でした。


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(今回の記事の写真はいずれも横浜の豊顕寺でした)

 

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (3) お寺の移設の時代について

前回の記事で、動乱の時代を生きる父から子への思いという仮説をもって良い話のようにまとめたのですが、ここで再々度、豊顕寺の説明文を確認しましょう。

当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

 

上記の真ん中あたりに

青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ッ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。

とあります。

 

えっ、先祖の菩提と郷里の人々の救済のために建てたはずのお寺を移設するの?

 

A. お寺が遠くてお墓参りが面倒になったから。

→ ないですよね。うん、ない。

 

B. お墓参りもお寺の維持も困難になった。

→ おそらく。お寺なんて滅多に、特に長距離移動はできるものではないはずです。そこには余程の事情があったと考えられます。

 

当時の情勢から、お寺の維持が困難になったと思われる背景を考えましょう。

 

お寺を移設した時期について、豊顕寺の説明文ではこのように書かれています。

元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。

最初に読んだときは、元興は1532年から1555年まで青木城にいてその後に隠棲したのだと思ったのですが、文章のとり方によっては1532年から1555年の間のいずれかの時期に隠棲したとも取れます。

 

江戸時代後期(1800年代)に編纂された文献『新編武蔵風土記』がそうなっているのですよね。

天文年中よりこの地の領主となりしゆへ、かの本國にありし本顯寺を當所へ引うつして名を豊顯寺と改めしとぞ

天文年間が憎い。当時としては長いほうで1532年から1555年まで24年間あり、記録に「天文年間」とだけ書かれるとだいたい1世代分の幅になってしまうよ。

 

それでもネットで調べて行くと、豊橋からの移設は1536年説と1551年説があることが分かりました。

どちらかが間違いの可能性もありますが、移設のフェーズが2段階あったとも考えられます。

 

1536年の豊橋付近がどんなことになっていたかというと、1529年に松平清康(家康の祖父)が岡崎方面から侵攻してきて一気に松平勢力になったと思いきや1535年の暮れに急死し("森山崩れ")、混乱していたことでしょう。

横浜でそのような状態を聞いていた多米元興がお寺の移設を考えるのも無理ありません。

 

一方、神奈川区史と横浜市史稿によると移設の年は1551年ということになっています。

tesshow.jp

 

今回、そちらの説を主に掘り下げてみます。

なぜなら、2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくる』に絡んでなかなか興味深いからです。すみません。

 

多米村は現在では豊橋市内になっていて、豊橋駅から東へ3~4kmの丘陵と谷戸の里です。

ピンポイントで1551年の豊橋の出来事をネットで見つけることはまだできていませんが、その年の前後で周囲の状況を見てみましょう。

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1547年、松平竹千代 (のちの徳川家康)が今川家に人質に送られる途中、護送に当たっていた戸田氏が反転して織田氏へ竹千代を送る。

 →この戸田氏の城が、多米の里に隣接する二連木城です。この当時、戸田氏と多米の里の関係はどうだったのかはネットで調べきれておりませんが、少なくとも1400年代末は対立関係にあったようです。1550年頃からこの近辺で活動していた戸田氏は「多米戸田氏」と呼ばれるようになっていて、一族が融合したか戸田氏が多米の里を領有したことが推測されます。・・・それがお寺の移転につながったと、自然に考えてしまいます。

 

1547年、織田信長濃姫が結婚。いや多米村と直接の関係は無いけど、間接的には影響があります。

 

1548年、多米の里から少し西にある岡崎で、小豆坂の戦い(第二次)。

 → 織田 vs 松平・今川 とするのが従来の説ですが、松平はこの戦いよりも前に織田に降伏して織田方になっていたのでは、という説もあります。

 で件の戸田氏はというと、前年の竹千代強奪(?)事件で今川義元がブチ切れ、田原城に拠る戸田氏は滅亡し、多米の里近くの戸田氏は今川に服属したようです。

 信長と濃姫の結婚は織田と斎藤道三の同盟を表し、織田氏三河で今川とぶつかる力を得たということになります。


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 いずれ、小豆坂の戦いは大勢において織田 vs 今川の戦いであり、位置的にその間にある松平氏や戸田氏をはじめ小勢力は「ええーー、どっちどっち?どっちに付けばいいの??」で揺れに揺れていたのは間違いありません。

 

1549年、前年の小豆坂の戦いの帰結として人質交換が行われます。大勢において今川が勝利し、竹千代は駿府へ送られました。

 

1551年、信長の父・信秀が死去し、尾張国は「うつけ」信長とその他の跡目候補で内紛が起こり混乱状態となります。これを見た今川氏はいよいよ尾張への攻勢を加速します。

 

 ー と、二大勢力の間で混乱の三河地方なのでした。

 

 この時代の多米の里の人々の具体的な動静が不明なのがもどかしいですが、お墓参りなんでできないどころか、お寺が荒れ果てて維持ができない状態だったのではないでしょうか。

 現在、多米の里にあったらしき本顕寺は、その場所すらも特定できていません。

 

以上、横浜を散歩していたふと見つけたお寺の説明文から、2020年大河ドラマまでつながった話でした。

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (2)

前回の記事では、横浜は三ツ沢の豊顕寺にある説明文から多米氏の足跡をイメージにしました。

もう一度説明文を載せましょう。


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当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

 

1行目はお寺の名称と宗派の説明ですのでここでは触れません。

 

問題は2行目です。

 

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。

 

横浜に城をもらう人が、同時に豊橋郷士ってありうるの?

戦国時代、あるいは後北条的にアリなの?

 

ていうか、郷士って何?

→調べました: 

 郷士(ごうし)は、江戸時代武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す

(Wikipediaより)

 

どうやら江戸時代の言葉のようです。おそらく多米氏は自分ではそう名乗らなかったと思います。「村の領主」みたいに捉えておけばいいですかね。

 

この時代の社会制度について詳しくは知りませんが、「多米村の郷士多米元興」とされた背景について想像の範囲で具体的な可能性をいくつか考えてみましょう。

 

A. 多米元興は相模国にいたが、本籍的なものは豊橋という自覚があり、寺を建てた。

→ かもしれない。ただ、元興がどこで生まれたのか不明だけれど、父親が相模国で何年も活動しており、息子にそれほど豊橋との結びつきがあったのか、そして誰が元興を「郷士」的な人物とみなしたのかは疑問が残ります。

 

B. 1515年時点で多米元興は豊橋にいた。寺を建てたあとで横浜に来た。

→ 父親である元益が相模国でめっちゃ忙しく戦っているのに、なぜ息子は豊橋にいて、その後横浜へ行ったのかが引っかかります。別の息子(たとえば兄など)が父親に付き従っていたが、死んでしまったので元興が相模国へ行った、等は可能性として考えられます。

 

C. 1515年豊橋に寺を建てたのは、元興ではなく父親の元益のほうだった。

 → 伊勢盛時(北条早雲)との関わりから、元益と元興のおよその年代を考えるとこれがしっくりきます。村の領主階級だった人が別の土地で出世したけど、晩年に故郷の一族のためと先祖の菩提のために寺を建てたと。

 

D. 元益と元興は同一人物説。

 → 最初の説明文から、元興は少なくとも1555年までは生きていた (後日追記:説明文の解釈により、1555年まで生きていたとは限らない)。一方、伊勢盛時駿河の今川氏を訪ねたのが1487年で(1476年説もあり)、元益がそれに自分の意思で同行しているっぽい話もあるので、同一人物ならかなり長生き?ざっと80歳以上になる?大丈夫?(後日追記:説明文の解釈により、天文年間の始めまでは確実に生きていいたことは言える。1532年。微妙ですね)

 

E. 元益が息子の元興の名義で寺を建てた。

 → 伊勢盛時について行ったらどえらい展開になったけど、ぼちぼち自分も伊勢盛時の寿命も尽きるし時代はどんどん混沌としてきたから、息子と郷里とのパイプを確実にしておきたい。お寺を作って多米村の人々を救うのは、相模で活躍している多米元興ですよと。

 

Eであってほしいなあ。にわかにEのような気がしてきた。

動乱の時代で父から子に託した思い。

主観的にはこれです。

 

よし、妄想歴史物語としてはよい形にまとまった。

 

と言いつつ、まだ気になる部分もあり、興味のおもむくままに次の記事で書きたいと思います。

 


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写真は、とある日の豊顕寺の横の公園です。

気持ちの良い三ツ沢の丘からの眺めです。

お寺の敷地はこの写真の左側になります。

 

<後日注>

・現在の横浜市相模国武蔵国の境目で両方あり、表記が紛らわしい部分もありますが、雰囲気で読んでいただければ幸いです。ちなみに、横浜駅付近の青木城と豊顕寺は武蔵国領域になります。一方、草創期の後北条勢力が最初に取ったのが相模国領域です。

北条早雲伊勢盛時伊勢新九郎・・・同一人物ですがこの他にも様々な呼び名があります。ここでは伊勢盛時としました。