歴史の小径

食ブログで書ききれなかった歴史と散歩の話

金森長近ダイジェスト

金森長近は、戦国時代の武将です。
織田信長明智光秀斎藤道三と同じ時代を生き、地理的にも近くにいた人ですが、この3人と比べると格段に知名度が低いです。


しかし、もしかしたら天下をとれたのでは?と思うほどの生涯を送っています。
戦国時代のミスター岐阜県と呼びたいです。

 


先日スマホRPGゲーム『岐阜クエスト』をプレイしまして、信長、光秀、道三、あと石田三成竹中半兵衛も出てきたのに金森長近は出ませんでした。

これが本記事を書く動機になりました。

尚、本記事において岐阜クエストの知識は一切必要ありません。


1524年生まれです。
土岐氏の支流で、多治見で生まれた説が強いです。
ただ、長近の父親が土岐氏家督争いに巻き込まれた結果、滋賀県守山市の金森という場所に住むことになり、そこで金森の姓を名乗ったようです。
長近も幼少期を滋賀県で過ごします。


土岐氏の流れとはいえメインストリームには遠かったのでしょう、長近の父親は商売をやったり金森の地で代官になったりして、いわゆる武家そのものではなくなっていたようです。


長近はそんな一家の長男でもなかったので、どうしたものかと考えた結果(経緯は不明)、十代の頃に織田信秀に仕官しました。信長の父親ですね。

 

あ、「長近」って、長いの?近いの?どっちなの?

という感じですが、この「長」は信長から賜ったもので、それ以前は「可近(ありちか)」という名前でした。ここでは「長近」に統一します。


織田信長は1534年生まれなので長近は10歳年長です。
長近が織田信秀に仕えた頃、信長はまだ少年だったことでしょう。


やがて信秀は亡くなりますが、長近はそのまま信長に仕えます。


そしてあの桶狭間の戦いに出陣し、武勲を上げたといいます。


信長の美濃攻略のフェーズでも軍功を挙げ、赤母衣衆(あかほろしゅう)という信長直属の選抜メンバーに選ばれています。
例えば前田利家など新進気鋭の若者が多かった直属メンバーの中で、長近は40歳を超えていました。


それから姉川の戦い本願寺攻め、越前朝倉攻めなど後世にも有名な戦に出陣し、武功を挙げて行きます。


長篠の戦い(1575年)では、武田勝頼の陣地の背後を急襲する部隊にいて、徳川軍の酒井忠次と共に作戦大成功です。
このときに信長から「長」の字を賜ったとも言われています。タイミング的には桶狭間の説もあります。


長篠からたった3ヶ月後、同じ年の1575年、今度は越前一向一揆を鎮圧するために越前大野に入り、すぐにこの地を平定しました。
越前大野市は福井県の山のほう、岐阜県寄りの盆地です。
長近はここで初めて領地を与えられます。
平定した大野の地に城を築き、城下町を整備しました。
この城下町の美しい風情は現代まで残っているそうです。


この時点での立場は柴田勝家の与力で、なんとなく美濃から北陸を押さえる担当の雰囲気が出ています。


1582年の甲州征伐では飛騨方面の大将を務めました。
ある意味日本の真ん中で美濃と越前・越中を結ぶ大きな山岳地域を任されている感がじわじわ出てきます。
よくまあ本州の真ん中の高い山々を越えて移動するのみならず戦ったものだと思います。


このころ、越前大野の南隣あたりにいた長屋氏から養子をもらい、さらにその子の嫁を郡上の遠藤氏から取り、越前大野と境を接する岐阜県の土地の領主と同盟を組む形で安定化を図ります。
ちなみにこの養子がのちに飛騨国を引き継ぎます。なぜなら嫡男が間もなく死亡するからです。


甲州征伐ときたら次はかの大事件、本能寺の変です。
長近はこの事件で主君と、自らの嫡男を失います。
どれくらい衝撃的なことだったかは想像もつきません。
そりゃあ剃髪もします。


しかし時代は否応なく長近の腕を掴みます。


本能寺の変からの賤ヶ岳の戦い(1583年)で、長近は柴田勝家の与力だったので勝家側のはずなのですが、前田利家と共に戦わずに撤退します。
この理由は明らかになっていませんが、結果として柴田勝家は滅び、長近も利家も共に秀吉の配下に入りました。


小牧・長久手の戦いを経て、秀吉は敵対することになった越中佐々成政の討伐に動きます。
佐々成政は、隣接する飛騨国姉小路氏と、白川郷の内ケ島氏と同盟を組み、秀吉に対抗しました。
そこへ秀吉から討伐命令を帯びた長近が向かいます(1585年)。


で、長近はあっさり内ケ島氏と姉小路氏の城をとりました。
この功績により、長近は秀吉から飛騨国を与えられます。


そこで10年間統治した越前大野を離れて高山を拠点に定め、高山城と城下町を整備しました。
長近が基礎を作った高山の街並みは現代でも観光客を引き寄せています。


1600年の関ヶ原の戦いでは東軍につきました。70代でしたが関ヶ原本戦の戦場に立ち、石田三成の陣地に迫りました。
この戦功と養子の郡上で戦の功績で、美濃市と関市のあたりを加増されました。


1605年、長近82歳、さすがに飛騨国を養子の金森可重に任せ、自身は美濃市に小倉山城を築いて、城下町を整備しました。
ここでまたしても現代まで観光客に癒しを与える「うだつの上がる街並」を作っています。

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令和の時代まで人々を楽しませる街並、これで3つ目です。どうなってるの。
しかもこの年に実子が生まれています。


1608年、京都にて85年の生涯を閉じました。
飛騨国は養子の可重が継ぎ、幼少の実子は「うだつの上がる街並」のほうを継ぎました。

 
-- (親交) --
この生涯をみると、なんとなく家康と気が合いそうですが実際そうだったようで、関ヶ原の戦いの後に二人で岐阜城に登り、信長時代からの思い出を語り合ったといいます。


さらに茶の湯の才能を持ち、古田織部と親交があります。漫画『へうげもの』に登場したようです。めちゃ読みたい。


また、本願寺教如とも親しく、家康に教如を紹介しました。
あれ?昔、一向一揆を鎮圧しませんでしたっけ?一揆側、浄土真宗の論理を学んで教如とやり取りするようになったのでしょうか。

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以上のことから、都市計画、文化、思想に至るまで機微を掴み、戦ではほとんど負け無しの人物であることがわかりました。
 

知名度を無視すれば大河ドラマになり得ると思います。

 

<参考資料>

金森長近 - Wikipedia

『信長・秀吉・家康に仕えた金森長近』文武に秀でた名君の生きざま - YouTube