毛利元就ダイジェスト
東日本の人間であるせいか、毛利氏について詳しく知りません。
本能寺の変のあたりで、毛利氏はなんか大きい西日本の勢力だったなと思っています。
このような毛利氏についての認識を1段階深めるため、毛利元就の生涯をダイジェストでまとめてみます。
シンプルに感覚で把握することを優先しました。
※ほんとは幼名とかあるけど「元就」として統一します。
※諸説あります。
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1497年 吉田郡山城で生まれる。
吉田郡山城は広島県にあるが海から遠く離れていて、瀬戸内海と日本海の真ん中ぐらいの山の中にある。
当時のそのあたりは大内氏と尼子氏の大勢力に挟まれた小勢力がいくつかあった。
毛利氏もその1つ。
応仁の乱は収束していたが、大内氏 vs 室町幕府の構図があり、毛利氏も大内氏に協力する形で巻き込まれた。
しかし大内氏には義理で味方していたので、あんまり忠誠心はなかった。
元就の父親は大勢力の狭間で苦労し、早々に隠居したと思ったら死んでしまった。元就まだ10歳。
隠居した場所で父親と共に暮らしていた元就だったが、家臣に裏切られて追い出されてしまう。
このとき元就の兄は14歳で、京都に駐在していた。
元就は養母(実母は元就が3歳の頃に死去)に生活を支えられてなんとか生きた。
ちなみに父親の死因は酒の飲みすぎと言われている。
養母と兄の力添えで元就は14歳のときに元服した。
毛利家の当主は兄であり、元就は分家の立場である。
ところが元就の元服の5年後ぐらいに兄が急死する。
原因はこれも酒の飲みすぎと言われている。
毛利家の家督は兄の嫡男が継いだが、幼少のため、叔父にあたる元就が後見人となった。
この毛利家の動揺を突いて安芸武田氏(近くの小勢力)が吉川氏(そのあたりの小勢力)を攻撃してきた。
毛利・吉川連合軍は安芸武田軍と激突し、勝利を収める。(有田中井出の戦い: 1517年)
なにげにこれが元就の初陣だったが、一気にその声望は広まった。
明確な時期は特定されていないが、この戦いの後に元就は吉川氏の娘と結婚する。
後のことになるが、この妻との子がいわゆる「三本の矢」となる。
そうこうしているうちに、後見していた甥っ子が9歳で死去してしまう。
毛利家の間では反対意見もあったようだが、なんだかんだで元就が当主になった。このとき27歳(1523年)。
志道広良(しじひろよし)というめちゃ有能で忠誠心のある家臣が元就を推挙し当主へ導いたと言われている。元就より30歳年上である。
元就が当主となった時点で、利益の合わない家臣もいたが、けっこう粛清された。
また、当主となった時点では元就は尼子氏サイドに就くことを決めたが、関係者の処遇などを巡り次第に不信感を募らせた。
まだ生き残っていた安芸武田氏の動きをきっかけに、尼子氏と大内氏が広島市内の佐東銀山(さとうかなやま)城の戦いで激突した(1524年)。
元就は尼子サイドとして参戦する。
大内サイドは当主とともに重臣の陶(すえ)氏が参戦した。
この戦いは大内サイドの勝利となったが、陶氏は元就の有能さを知り、大内家当主に元就を味方に引き入れることを進言したと言われている。
この戦いの翌年、元就は大内側に就くことを明確にした。
1529年、大内当主・義興死す。息子の大内義隆が継ぐと、毛利氏をさらに厚遇した。
元就は大内氏の下で尼子勢力を切り崩して行く。
特に、毛利家の元家臣であった高橋氏が離反して尼子サイドになると、元就は高橋氏を滅ぼした。これにより大きな領地を得た。
元就の活躍により大内氏は勢力を伸ばして行く。
大内義隆は元就を幕府に取り次ぎ、元就は官位を得た。
1537年、元就は嫡男・隆元を大内家の人質に出す。
隆元、山口の大内家ですごい厚遇され大内文化に染まる。
1542~43年、大内 vs 尼子で第1次月山富田城の戦い。
月山富田城は尼子領。難攻不落であった。
元就を含む大内軍は大敗した。
1544年、元就は三男・隆景を小早川氏へ養子に出した。
1545年、元就の妻と養母が相次いで亡くなる。
1546年、元就は隠居を表明したが、嫡男・隆元は隠居しちゃ嫌だって言うし、とりあえず形だけみたいになった。
1547年、元就は次男・元春を吉川家へ養子に出した。
小早川家、吉川家とも多少のゴタゴタを経て「毛利両川体制」が確立した。
一方、大内家の当主・大内義隆は月山富田城の敗戦以来やる気をなくしていた。
大内重臣の陶晴賢は困った。
陶晴賢は大内義隆を討つことにした。
このとき元就は陶のサイドに就いていた。
この事件を機に元就は勢力を拡大する。
大内氏の実権を握った陶晴賢と元就は共同戦線を張るかと思いきや、どんどん勢力を拡大する毛利氏に対して陶氏は「えっ」てなる。
そんなところに石見地方の小勢力で陶サイドだった吉見氏が、陶氏に反旗を翻した。
毛利家は会議の結果、吉見サイドで参戦することにした。
なるほど嫡男・隆元は大内義隆にすごい世話になったのに陶晴賢が殺してしまったので、陶氏と袂を分かつことを主張したのだった。
そのころ小早川氏は首尾よく村上水軍を味方に付けた。
1555年、厳島の戦い。かなり怒った陶氏と毛利氏の戦いである。
毛利氏が厳島の城である宮尾城を持っていて、小早川氏と組んだ村上水軍が毛利の味方に駆けつける。
陶晴賢は追い詰められて切腹した。
1557年、一応大内氏の当主であった大内義長を元就が討ち、大内氏は滅亡した。
元就は息子たちと共に大内氏の領地を平定した。
元就の有能な家臣・志道広良は、大内氏領地の平定を見届けて死す。91歳であった。
そういえば元就も61歳になっていた。
元就、今度こそ本当に引退するって言う。
嫡男・隆元、だめって言う。
元就、一旦引退を取り下げる。
ここで三本の矢の話である。逸話だが。
ところで尼子氏はまだ滅びていなかった。石見銀山を持っていた。
元就は尼子義久と和平を結び、石見銀山を使えるようになった。しかしあっさり石見銀山を占領した。
一方嫡男・隆元は、大友氏との和睦をまとめた。
しかしその後、1563年に謎の死を遂げる。
元就、ショックで死のうとしたし疑心暗鬼になって何人か殺した。
周囲の説得で自殺を思いとどまった元就、尼子氏討伐に気力を捧げる。
隆元が死亡したときその嫡男(のちの輝元)は11歳であり、またしても元就が後見することになった。
輝元の「輝」は当時の将軍・足利義輝から拝領したものである。すなわち幕府から地方の支配者として認められたのだった。
1565~66年、第2次月山富田城の戦い。
第1次で手痛い敗北を知っている元就は、周到な籠城戦を展開した。
元就70歳、戦場で勝利した。
ここに尼子氏は滅亡した。
1567年、元就は隠居しようとしたが、やっぱり孫の輝元(15歳)がすごくお願いして止めた。
おじいちゃん、隠居をあきらめた。
元就は最後まで戦い続け、1571年に病気か老衰で死んだ。
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<参考資料>
毛利元就 前編 ゆっくり戦国武将解説
https://www.youtube.com/watch?v=JHfhqim2Pv4
・毛利毛利元就の歴史まるわかり年表!簡単にザーっとまとめました
https://yururito-sengoku.com/mourimotonari/mourimotonarinenpyou.html
・毛利元就年表
http://www.028028.com/m_nenpyo.htm