歴史の小径

食ブログで書ききれなかった歴史と散歩の話

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (1)

史跡にある説明を読んで、そのときは分かった気になるけれども、再び訪れて同じ説明を読むとまた「ふーん」と同じことを分かった気になる。

 

つまり理解していないのです。

 

文章が悪いのではありません。

 

その場では文章として理解した気になっていても、文章の中にある複数の要素が頭の中で結びついていなくて、場所を離れるとバラバラになってしまうのです。

 

せいぜい僅かに一つか二つの、印象に残りやすい単語が頭の片隅に残る程度になります。

 

まさにその例が、横浜市の三ツ沢にある豊顕寺(ぶげんじ)の説明でした。


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 いわく、

当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

(前半部分。後半は江戸時代以降のことなので割愛)

 

文章に破綻はなく、構造にややこしい部分もありません。

にもかかわらず、私はここへ来て4度か5度はこれを読み、毎回「ふーん」となっていたのでした。

 

このたび、やっと掴めた気がしたので喜びお伝えする次第です。

 

豊橋から来た多米氏は、

元益 → 元興 → 長宗

と世代が移行したことが上記の文章からは読み取れます。

 

それじゃあ、こういうことかな?

 

I. 出会い

 多米元益が伊勢盛時(北条早雲)と出会って東へ行く。


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II. 世代交代

 多米元益 → 多米元興

 

多米元興、横浜駅近くの青木城をもらう。
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III. 世代交代

 多米元興 → 多米長宗

 

多米元興、青木城を長宗に託して、横浜駅から2kmぐらい離れた三ツ沢に寺を建て(豊橋から移設)隠棲する。


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IV. 多米長宗、三ツ沢付近の領地をお寺に寄進する。
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説明文から、破綻していないイメージはこれでよし。

うむ、このような捉え方で行こう。

 

と思ったのですが、ネットで調べると多米元益と元興が同一人物だったり、元興とその息子が同一人物とみなされていたり、元興の息子が複数いるようにも見えるけれども同じ人物と捉える組み合わせが複数あったりと、もうしっちゃかめっちゃかでドツボにはまりました。

 

上記に挙げた3代は、誰一人として正確な生没年が分からないんですね。

(その理由は、最初の写真で割愛した、江戸時代以降の火災や地震で檀林が途絶えたことが大きいと思われます)

 

まあ、やっと豊顕寺の歴史のイメージは掴めたので一旦ここで区切りまして、2020年の私の連休はこれでいいのです。

 

その他の気になった点は別の記事で改めて考察してみます。