毛利元就(の妻)の小説・永井路子の『山霧』を読んだ
2021年のゴールデンウィークは2020年と同じく、家に居ることが推奨されましたね。
読書が捗ります。
ふと読み始めた『山霧』は、引き込まれて3日で一気に上下巻を読んでしまいました。
せっかくなので感想をシェアします:
毛利元就の妻を主役にした歴史小説です。
1997年に毛利元就生誕500周年記念として制作されたNHK大河ドラマ『毛利元就』の原案にもなった作品です(私はドラマは観ていません)。
大河ドラマでは元就が主役だったようですが、小説ではなぜ妻が主人公だったのかに興味をを持って読み始めました。
物語は、輿入れの時点から始まります。
実は正確な年が不詳なのですが、二人が結婚したのは1520年前後と推測されており、その頃の中国地方は山口~瀬戸内海側の大内氏と日本海側の尼子氏がいて、その二大勢力に数多の小勢力が挟まれていたってやつですね。
数多の小勢力同士の婚姻でした。
敵なのか同盟者なのか、微妙な関係の勢力同士の婚姻が世の習いの戦国時代です。
相手勢力の中へ輿入れしてきた妻が「あのお城、本拠地にしては脆いのでは?」と、別に築城の知識がある訳ではないのだけど何となく呟いちゃって、昔からのお付きの者に「滅多なことを口にするものではございません」とかたしなめられたりする。
そんな女性たちの生き様について、史料にはほとんど出てこないけれどおそらく実際の女性たちの心の中に去来していたであろうものごとが描かれていたので興味深く読みました。
「彼女たちもまた、生命を燃焼させながら、戦国という人生ゲームに参加している。」
ってカッコいい。
妻が実際にデキる人であっただろうことは、息子が三人とも戦国史に名を残す有名武将として活躍したことからも推測できます。
話は輿入れの時点から始まるので、冒頭で元就は20歳を超えているのですが、元就幼少期からの波乱は新妻にやさしく説明する形で語られます。
元就が若かりし頃の中国地方山間部は「小勢力が割拠」とよく書かれているけど、改めて地図を確認していくと、徒歩圏内で敵味方入り乱れていたっぽい様子が分かります。
現代なら同じ市内で「おじいちゃんの家」「従兄弟の家」みたいな距離感で、たとえば「従兄弟のお嫁さんの本家さんは敵対勢力に協力したらしい」みたいな感覚だと思われます。
物理的な距離感もだし、親戚同士が敵か味方かみたいな血筋の距離感も然りです。
朝に徒歩で家を出て相手の家へ何か届けたりして、夕方帰宅できる距離に敵味方が入り乱れているような環境で元就も妻も成長したことが分かります。
ところでこの小説は会話が多いです。
元就は頭が良すぎて先々が読めすぎる・・・未来の我々から見れば結果的に妥当な判断をしてきたことが分かりますが、当時の一寸先は闇の状態で元就がなぜその判断をしたのか?なかなか解せないところに妻が疑問を呈し、元就が回答して話が進みます。
すなわち、読者の多くは妻側の感覚で物語の中に立つでしょう。その仕掛けが面白かったです。
まあ妻が普通っぽい受け手の役割ではありますが、かなりデキるひとであることは作中で何度も描かれます。このバランスが絶妙なところで、ある程度当時の当事者の状況を俯瞰できる我々現代人の目線にも近いのです。
あと、「かわいそう」とか「恩義がある」とか、親愛の情のような現代的な感覚を彼女が受け持ちます。
元就はバリバリ戦国人で、自分の一家がいかに生き残るかが行動原理であり、そこは現代人とは少し違う感覚なのでしょう。かわいそうでも恩義があっても、他人を殺さなければならないことがあります。
夫婦の長男・のちの隆元が大内家へ行くのは、ほぼ人質の意味合いでした。我が子が手元を離れ、死ぬまで会えないかもしれない状況で人質として遠くへ行く日、妻は泣きました。たぶん元就も辛かったのだけど、二人分の涙を流したのは妻でした。
まあしかしそんな母親の心配をよそに、長男は人質に入った先で当主にめちゃくちゃ気に入られる展開が待っていたんですけどね。
小説は、1546年の妻の死で幕を閉じます。享年47。元就はその後も長く、1571年まで生き長らえたことを考えると「もっと読みたい」ともなりますが、歴史なのでどこかで区切りをつけなければなりません。
法名は妙玖といい、元就は妻の死後
「妙玖のことばかりしのばれる」
「妙玖が生きていたら相談したのに」
と息子に宛てた書簡があるそうです。
【想像】天の国にて 1563年
隆元「いろいろあってちょっと早めに死んでしまいました。母上は、本当は私よりも先に父上にここでお会いしたかったのでしょう?」
妙玖「あら、いろんな意味でそうに決まっているじゃないの」
妻の死の翌年、元就は引退を表明します。
まあ形だけの引退になった訳ですが、毛利両川体制の確立、大寧寺の変、厳島の戦いからの大内家乗っ取りなどが、妻の死から長男・隆元の死までの出来事です。
ここまででも下界を見守る妙玖にとっては驚天動地の展開だったでしょうが、この先も戦国の時代が煮詰まってきて、毛利家が国全体の重要な鍵を握り一層スリリングな展開を見せることを、まだ知らない母子でありました。
おしまい
【想像】金森長近と土岐一族、そして本能寺の変
登場する武将は2000人ほどというゲーム『信長の野望』には登場するが、小説やドラマにはなかなか登場しない金森長近さんについて、前回のダイジェストを書きながら想像の翼が広がりましたので記します。
はい、これは想像の記事です。すみません。
想像が広がって収拾がつかない勢いだったのが歴史的大事件・本能寺の変です。
なぜなら首謀者が明智光秀だからです。
金森長近は、土岐一族でした。
そしてご存知のとおり、明智光秀も土岐一族とみなされています。
本能寺の一方に接した長近の脳裏を駆け巡ったのはどのようなことだったのか ー
時を戻そう。
長近は1524年に多治見あたりで生まれました。
その頃、美濃国守護である土岐氏は土岐頼芸(よりのり)とその兄・土岐頼武が家督を争い、1525年から27年にかけて美濃国内で戦闘が起きています。
長近さんの父・定近さんは頼武を支持し、最終的に頼武さんが敗北したのです。
こうして長近さんは生まれて間もなく土岐一族の内紛に巻き込まれ、一家は南近江の金森という地へ移住します。
ー ということがありまして。
一方、明智光秀は頼芸サイドでしたよね、大河ドラマ『麒麟がくる』によると。
前半生が謎に包まれているとはいえ、歴史の表舞台に出てからは水色の桔梗紋をはためかせて土岐一族を名乗っています。
すなわち、長近と光秀は、同じ織田信長の下にいながら土岐一族の中では敵同士だったことになります。
光秀が、主君である信長を討った?
しかも長近の嫡男まで巻き添えで殺された?
本能寺の一報に接したとき、驚愕と同時に他の感情も走ったのではないかと、このような背景を知るにつけ想像してしまうのです。
「ときは今 あめが下しる 五月かな」
とか言ってんじゃねーよ!
なんて、おそらく本能寺の時点で長近さんはその歌を知らなかったでしょうけど。
さて次に、長近さんが土岐氏をどう思っていたのかを考えました。
織田信秀に仕官したときからその後も、土岐氏を名乗らなかったと想像します。
というのも、ごく数十年前まで金森氏の先祖は不明だったからです。
あの『街道をゆく』で飛騨高山について書かれた部分があるのですが、そこで紹介された長近の血筋は不明で、織田家中の有象無象の者どもの一人ということになっているのです。
司馬遼太郎氏が飛騨高山を取材したのは1986年で、その後に研究が進んだと思われます。
あれだけ織田・豊臣・徳川と上手くやった人の血筋がごく最近まで不明で、むしろ謎の多い明智光秀が桔梗紋を引っさげているのは不思議ではありませんか。
厳密に出自を隠すほどではなかったが、自ら名乗ることはなかったと推察します。
織田信秀に仕官するときも、
「南近江の金森郷からきました、金森と申します」
ぐらいの自己紹介だったのではないでしょうか。
尋ねられたら
「先祖はよく分かりませんで」
と。
文武両道ハイパー文化人なので、土地の方言に順応するのは早かったと思われます。
ドラマだったら、1527年の戦乱の多治見で片や故郷を出て行く者、片や新しい支配層として一瞬だけ幼い光秀と長近が相見えるシーンを入れたいところです。
明智光秀の生年が諸説ありすぎてそこから難しいですが。
(写真は東濃地方の栗どらです。お納めください)
金森長近ダイジェスト
金森長近は、戦国時代の武将です。
織田信長、明智光秀、斎藤道三と同じ時代を生き、地理的にも近くにいた人ですが、この3人と比べると格段に知名度が低いです。
しかし、もしかしたら天下をとれたのでは?と思うほどの生涯を送っています。
戦国時代のミスター岐阜県と呼びたいです。
先日スマホRPGゲーム『岐阜クエスト』をプレイしまして、信長、光秀、道三、あと石田三成と竹中半兵衛も出てきたのに金森長近は出ませんでした。
これが本記事を書く動機になりました。
尚、本記事において岐阜クエストの知識は一切必要ありません。
1524年生まれです。
土岐氏の支流で、多治見で生まれた説が強いです。
ただ、長近の父親が土岐氏の家督争いに巻き込まれた結果、滋賀県守山市の金森という場所に住むことになり、そこで金森の姓を名乗ったようです。
長近も幼少期を滋賀県で過ごします。
土岐氏の流れとはいえメインストリームには遠かったのでしょう、長近の父親は商売をやったり金森の地で代官になったりして、いわゆる武家そのものではなくなっていたようです。
長近はそんな一家の長男でもなかったので、どうしたものかと考えた結果(経緯は不明)、十代の頃に織田信秀に仕官しました。信長の父親ですね。
あ、「長近」って、長いの?近いの?どっちなの?
という感じですが、この「長」は信長から賜ったもので、それ以前は「可近(ありちか)」という名前でした。ここでは「長近」に統一します。
織田信長は1534年生まれなので長近は10歳年長です。
長近が織田信秀に仕えた頃、信長はまだ少年だったことでしょう。
やがて信秀は亡くなりますが、長近はそのまま信長に仕えます。
そしてあの桶狭間の戦いに出陣し、武勲を上げたといいます。
信長の美濃攻略のフェーズでも軍功を挙げ、赤母衣衆(あかほろしゅう)という信長直属の選抜メンバーに選ばれています。
例えば前田利家など新進気鋭の若者が多かった直属メンバーの中で、長近は40歳を超えていました。
それから姉川の戦い、本願寺攻め、越前朝倉攻めなど後世にも有名な戦に出陣し、武功を挙げて行きます。
長篠の戦い(1575年)では、武田勝頼の陣地の背後を急襲する部隊にいて、徳川軍の酒井忠次と共に作戦大成功です。
このときに信長から「長」の字を賜ったとも言われています。タイミング的には桶狭間の説もあります。
長篠からたった3ヶ月後、同じ年の1575年、今度は越前一向一揆を鎮圧するために越前大野に入り、すぐにこの地を平定しました。
越前大野市は福井県の山のほう、岐阜県寄りの盆地です。
長近はここで初めて領地を与えられます。
平定した大野の地に城を築き、城下町を整備しました。
この城下町の美しい風情は現代まで残っているそうです。
この時点での立場は柴田勝家の与力で、なんとなく美濃から北陸を押さえる担当の雰囲気が出ています。
1582年の甲州征伐では飛騨方面の大将を務めました。
ある意味日本の真ん中で美濃と越前・越中を結ぶ大きな山岳地域を任されている感がじわじわ出てきます。
よくまあ本州の真ん中の高い山々を越えて移動するのみならず戦ったものだと思います。
このころ、越前大野の南隣あたりにいた長屋氏から養子をもらい、さらにその子の嫁を郡上の遠藤氏から取り、越前大野と境を接する岐阜県の土地の領主と同盟を組む形で安定化を図ります。
ちなみにこの養子がのちに飛騨国を引き継ぎます。なぜなら嫡男が間もなく死亡するからです。
甲州征伐ときたら次はかの大事件、本能寺の変です。
長近はこの事件で主君と、自らの嫡男を失います。
どれくらい衝撃的なことだったかは想像もつきません。
そりゃあ剃髪もします。
しかし時代は否応なく長近の腕を掴みます。
本能寺の変からの賤ヶ岳の戦い(1583年)で、長近は柴田勝家の与力だったので勝家側のはずなのですが、前田利家と共に戦わずに撤退します。
この理由は明らかになっていませんが、結果として柴田勝家は滅び、長近も利家も共に秀吉の配下に入りました。
小牧・長久手の戦いを経て、秀吉は敵対することになった越中の佐々成政の討伐に動きます。
佐々成政は、隣接する飛騨国の姉小路氏と、白川郷の内ケ島氏と同盟を組み、秀吉に対抗しました。
そこへ秀吉から討伐命令を帯びた長近が向かいます(1585年)。
で、長近はあっさり内ケ島氏と姉小路氏の城をとりました。
この功績により、長近は秀吉から飛騨国を与えられます。
そこで10年間統治した越前大野を離れて高山を拠点に定め、高山城と城下町を整備しました。
長近が基礎を作った高山の街並みは現代でも観光客を引き寄せています。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍につきました。70代でしたが関ヶ原本戦の戦場に立ち、石田三成の陣地に迫りました。
この戦功と養子の郡上で戦の功績で、美濃市と関市のあたりを加増されました。
1605年、長近82歳、さすがに飛騨国を養子の金森可重に任せ、自身は美濃市に小倉山城を築いて、城下町を整備しました。
ここでまたしても現代まで観光客に癒しを与える「うだつの上がる街並」を作っています。
令和の時代まで人々を楽しませる街並、これで3つ目です。どうなってるの。
しかもこの年に実子が生まれています。
1608年、京都にて85年の生涯を閉じました。
飛騨国は養子の可重が継ぎ、幼少の実子は「うだつの上がる街並」のほうを継ぎました。
-- (親交) --
この生涯をみると、なんとなく家康と気が合いそうですが実際そうだったようで、関ヶ原の戦いの後に二人で岐阜城に登り、信長時代からの思い出を語り合ったといいます。
さらに茶の湯の才能を持ち、古田織部と親交があります。漫画『へうげもの』に登場したようです。めちゃ読みたい。
また、本願寺教如とも親しく、家康に教如を紹介しました。
あれ?昔、一向一揆を鎮圧しませんでしたっけ?一揆側、浄土真宗の論理を学んで教如とやり取りするようになったのでしょうか。
--
以上のことから、都市計画、文化、思想に至るまで機微を掴み、戦ではほとんど負け無しの人物であることがわかりました。
<参考資料>
毛利元就ダイジェストを書いて気がついたこと
今回の記事は、前回の記事で初めて歴史上の人物のダイジェストを書いてみて気がついたことあったので、それを書き留めるものです。
毛利元就をほとんど知らない人間が簡略な生涯なんて書いてしまってファンに怒られないかなとおそれつつ、様子をみております。
<気がついたこと>
・削るのが一番大変
・焦点を絞らざるを得ない
毛利元就さん、ボリューム大です。
特に、生涯で戦は大小無数にあった訳で、それはもう書ききれないので5つほどに絞りました。しかも勝敗の結果しか書いていません。
智将や謀神と呼ばれた元就なので、1回の戦でも膨大な描写になり得ることでしょう。
また、戦と戦の間にも謀略の伏線が張られていたことでしょう。
戦を書かずして毛利元就は語れないという向きもあるかもしれません。そうかもしれない。
登場人物も絞りました。家族と、敵対勢力の当主と、あとは腹心の志道広良さんのみです。
江良さんや山中鹿介は出したい気持ちもありました。
結局、家族をメインにしました。
家族関係を見るだけでも、すさまじい生涯だったことが分かります。
3歳で実母と死別し、10歳で実父が、そして唯一頼りにしていた兄まで元就が20歳のときに亡くなり、最も近しい肉親を幼少~少年~青年期に相次いで喪った訳です。
サバンナの真ん中に放り込まれたような状態です。
しかも、守らなければならないのは自分の命だけではありません。幼い甥っ子と毛利家と家臣たちを、巨大な勢力の狭間で守らなければならない。頼れる肉親を全て亡くした状態で。
というのが前半生で、結婚して子供ができてから、そりゃもう子供を可愛がったんだろうと思います。
嫡男の隆元には2度も隠居を止められて、言うこと聞いてますからね。
さらに、陶氏と袂を分かつ段では自分の意見を引っ込めて隆元の方策を採用しましたね。
隆元が突然死去したときは我を忘れるほどショックを受けました。
他家に養子に出したはずの次男・三男も結局は我が家の子に、家ごとなっちゃいましたからね。「毛利両川」って、ねえ。
だからもう、孫の輝元をどれだけ愛したか。
当時の平均ではとっくに寿命が尽きた年齢でも、輝元が「隠居しないで」とお願いすれば聞き入れちゃうんですよ。
もしタイムトラベルできるなら、元就さん家の縁側で、孫がどれだけ可愛いか話すのをひたすら聞いていたい。
生涯をまとめた結果、そんなことを思いました。
毛利元就ダイジェスト
東日本の人間であるせいか、毛利氏について詳しく知りません。
本能寺の変のあたりで、毛利氏はなんか大きい西日本の勢力だったなと思っています。
このような毛利氏についての認識を1段階深めるため、毛利元就の生涯をダイジェストでまとめてみます。
シンプルに感覚で把握することを優先しました。
※ほんとは幼名とかあるけど「元就」として統一します。
※諸説あります。
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1497年 吉田郡山城で生まれる。
吉田郡山城は広島県にあるが海から遠く離れていて、瀬戸内海と日本海の真ん中ぐらいの山の中にある。
当時のそのあたりは大内氏と尼子氏の大勢力に挟まれた小勢力がいくつかあった。
毛利氏もその1つ。
応仁の乱は収束していたが、大内氏 vs 室町幕府の構図があり、毛利氏も大内氏に協力する形で巻き込まれた。
しかし大内氏には義理で味方していたので、あんまり忠誠心はなかった。
元就の父親は大勢力の狭間で苦労し、早々に隠居したと思ったら死んでしまった。元就まだ10歳。
隠居した場所で父親と共に暮らしていた元就だったが、家臣に裏切られて追い出されてしまう。
このとき元就の兄は14歳で、京都に駐在していた。
元就は養母(実母は元就が3歳の頃に死去)に生活を支えられてなんとか生きた。
ちなみに父親の死因は酒の飲みすぎと言われている。
養母と兄の力添えで元就は14歳のときに元服した。
毛利家の当主は兄であり、元就は分家の立場である。
ところが元就の元服の5年後ぐらいに兄が急死する。
原因はこれも酒の飲みすぎと言われている。
毛利家の家督は兄の嫡男が継いだが、幼少のため、叔父にあたる元就が後見人となった。
この毛利家の動揺を突いて安芸武田氏(近くの小勢力)が吉川氏(そのあたりの小勢力)を攻撃してきた。
毛利・吉川連合軍は安芸武田軍と激突し、勝利を収める。(有田中井出の戦い: 1517年)
なにげにこれが元就の初陣だったが、一気にその声望は広まった。
明確な時期は特定されていないが、この戦いの後に元就は吉川氏の娘と結婚する。
後のことになるが、この妻との子がいわゆる「三本の矢」となる。
そうこうしているうちに、後見していた甥っ子が9歳で死去してしまう。
毛利家の間では反対意見もあったようだが、なんだかんだで元就が当主になった。このとき27歳(1523年)。
志道広良(しじひろよし)というめちゃ有能で忠誠心のある家臣が元就を推挙し当主へ導いたと言われている。元就より30歳年上である。
元就が当主となった時点で、利益の合わない家臣もいたが、けっこう粛清された。
また、当主となった時点では元就は尼子氏サイドに就くことを決めたが、関係者の処遇などを巡り次第に不信感を募らせた。
まだ生き残っていた安芸武田氏の動きをきっかけに、尼子氏と大内氏が広島市内の佐東銀山(さとうかなやま)城の戦いで激突した(1524年)。
元就は尼子サイドとして参戦する。
大内サイドは当主とともに重臣の陶(すえ)氏が参戦した。
この戦いは大内サイドの勝利となったが、陶氏は元就の有能さを知り、大内家当主に元就を味方に引き入れることを進言したと言われている。
この戦いの翌年、元就は大内側に就くことを明確にした。
1529年、大内当主・義興死す。息子の大内義隆が継ぐと、毛利氏をさらに厚遇した。
元就は大内氏の下で尼子勢力を切り崩して行く。
特に、毛利家の元家臣であった高橋氏が離反して尼子サイドになると、元就は高橋氏を滅ぼした。これにより大きな領地を得た。
元就の活躍により大内氏は勢力を伸ばして行く。
大内義隆は元就を幕府に取り次ぎ、元就は官位を得た。
1537年、元就は嫡男・隆元を大内家の人質に出す。
隆元、山口の大内家ですごい厚遇され大内文化に染まる。
1542~43年、大内 vs 尼子で第1次月山富田城の戦い。
月山富田城は尼子領。難攻不落であった。
元就を含む大内軍は大敗した。
1544年、元就は三男・隆景を小早川氏へ養子に出した。
1545年、元就の妻と養母が相次いで亡くなる。
1546年、元就は隠居を表明したが、嫡男・隆元は隠居しちゃ嫌だって言うし、とりあえず形だけみたいになった。
1547年、元就は次男・元春を吉川家へ養子に出した。
小早川家、吉川家とも多少のゴタゴタを経て「毛利両川体制」が確立した。
一方、大内家の当主・大内義隆は月山富田城の敗戦以来やる気をなくしていた。
大内重臣の陶晴賢は困った。
陶晴賢は大内義隆を討つことにした。
このとき元就は陶のサイドに就いていた。
この事件を機に元就は勢力を拡大する。
大内氏の実権を握った陶晴賢と元就は共同戦線を張るかと思いきや、どんどん勢力を拡大する毛利氏に対して陶氏は「えっ」てなる。
そんなところに石見地方の小勢力で陶サイドだった吉見氏が、陶氏に反旗を翻した。
毛利家は会議の結果、吉見サイドで参戦することにした。
なるほど嫡男・隆元は大内義隆にすごい世話になったのに陶晴賢が殺してしまったので、陶氏と袂を分かつことを主張したのだった。
そのころ小早川氏は首尾よく村上水軍を味方に付けた。
1555年、厳島の戦い。かなり怒った陶氏と毛利氏の戦いである。
毛利氏が厳島の城である宮尾城を持っていて、小早川氏と組んだ村上水軍が毛利の味方に駆けつける。
陶晴賢は追い詰められて切腹した。
1557年、一応大内氏の当主であった大内義長を元就が討ち、大内氏は滅亡した。
元就は息子たちと共に大内氏の領地を平定した。
元就の有能な家臣・志道広良は、大内氏領地の平定を見届けて死す。91歳であった。
そういえば元就も61歳になっていた。
元就、今度こそ本当に引退するって言う。
嫡男・隆元、だめって言う。
元就、一旦引退を取り下げる。
ここで三本の矢の話である。逸話だが。
ところで尼子氏はまだ滅びていなかった。石見銀山を持っていた。
元就は尼子義久と和平を結び、石見銀山を使えるようになった。しかしあっさり石見銀山を占領した。
一方嫡男・隆元は、大友氏との和睦をまとめた。
しかしその後、1563年に謎の死を遂げる。
元就、ショックで死のうとしたし疑心暗鬼になって何人か殺した。
周囲の説得で自殺を思いとどまった元就、尼子氏討伐に気力を捧げる。
隆元が死亡したときその嫡男(のちの輝元)は11歳であり、またしても元就が後見することになった。
輝元の「輝」は当時の将軍・足利義輝から拝領したものである。すなわち幕府から地方の支配者として認められたのだった。
1565~66年、第2次月山富田城の戦い。
第1次で手痛い敗北を知っている元就は、周到な籠城戦を展開した。
元就70歳、戦場で勝利した。
ここに尼子氏は滅亡した。
1567年、元就は隠居しようとしたが、やっぱり孫の輝元(15歳)がすごくお願いして止めた。
おじいちゃん、隠居をあきらめた。
元就は最後まで戦い続け、1571年に病気か老衰で死んだ。
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<参考資料>
毛利元就 前編 ゆっくり戦国武将解説
https://www.youtube.com/watch?v=JHfhqim2Pv4
・毛利毛利元就の歴史まるわかり年表!簡単にザーっとまとめました
https://yururito-sengoku.com/mourimotonari/mourimotonarinenpyou.html
・毛利元就年表
http://www.028028.com/m_nenpyo.htm
隅田川・荒川・江戸川ってどういう位置関係?(2) 完結
前回(1)の続きです。今回で散歩は完結します。
旧中川・荒川・中川と連続して東へ越えた先が江戸川区なんですね。
気がつけば江戸川区・船堀に来ていました。
荒川・中川を渡ったら、船堀から東へ伸びる新川を辿って江戸川を目指すのでした。
東西方向の水路は、荒川・中川を境に小名木川から新川へバトンタッチです。
船堀という地名はその新川があるため、船が出入りする堀という意味から来たらしいです。
新川、なんかいいじゃん。
しかし水たっぷりすぎない?
そりゃ大都市・東京の歴史ある地域だから対策はしてあるのでしょう。
たゆたう水と水辺の美しさは、今回辿ったコースで随一でした。
江戸時代から明治・大正に至るまで、水路沿いにお店が出て賑わっていたのですね。
昭和に入ると船は使われなくなり、
さらに高度経済成長期に地盤沈下して一旦人々の生活から遠ざかった。
しかし、平成に入ってから整備して今の姿になったと。
新川の東端は、江戸川に合流していると思いきや、土管から水が流れ込む風景でした。
何らかのハイテクな技で水を制御しているのでしょう、たぶん。
しかも新川の東端は、江戸川だと思ったら旧江戸川でした。
存分にデカい川ですが、ほんまもんの江戸川と違うのですか。
そこからまっすぐ東へ渡る橋がなかったので、少し北上して、一旦新中川を渡ってから旧江戸川を渡ります。ややこしい。
瑞穂大橋の地点で新中川と旧江戸川が合流します。
瑞穂大橋で新中川を渡ってすぐに新大橋で旧江戸川を渡ると、
えっ
えっ千葉?
もう?
てっきり、この先にある江戸川を渡った先が千葉だと思っていました。
だって「江戸川」ですよ?
この散歩で一番の衝撃でした。
旧江戸川を横目に見つつ少し辿りつつ、行徳を目指します。
行徳は江戸時代の塩の集積地であり、河川と運河を利用して江戸のほうへ運んだらしいです。
行徳駅前はあまり塩っぽいものは見られませんでした。
行徳を過ぎ、あとは本ちゃん(「旧江戸川」に対して)の江戸川を渡れば今回の旅も目的は達成です。
どの道を辿るのがいいのかな?
とスマホで地図を確認すると、気になる道がありました。
この細かい折れ曲がりはあやしいですぞ。
お寺や神社と住宅の合間の細い道が折れ曲がって続いていました。
こういうのが見たかった。
お寺がずいぶん多いのです。
途中で解説の看板がありました。
家康公が鷹狩に行くときに立ち寄った、という伝承ですと。
そして、江戸時代初期はこのあたりがメインストリートであったと考えられると。
江戸時代初期、ということは、さらに時代がすすんでそれこそ河川が整備されいよいよ水路の役割を担うようになると、街の中心はもっと川沿いに近づいたのかな?
などと考えつつ、いよいよ江戸川を渡ります。
その名も行徳橋でした。
橋に並行して可動堰があり、巨大メカっぽくてカッコよかったです。
↓これが江戸川(行徳橋から上流方向、可動堰の逆)だ。
という訳で江戸川を渡りきり、最寄りの本八幡駅から電車に乗ろうとしたら、行徳橋と本八幡の間に高速道路が複雑に通っていてなかなか辿り着けませんでした。
最後でタイムアップが迫ってきて、回り道して3kmほど走り続けました。
20km以上歩いてからの3kmダッシュで、
「私けっこういけるじゃん」
と思いつつ、本当は本八幡の街をもっと見たかったと後ろ髪を引かれつつの帰投となりました。
水路も高速道路も複雑、これが現代の東京湾岸です。
水路なんかは江戸時代の直前から、網の目のような河川と湿地帯を考えて制御して管理して、もしかしたら日本の河川の特徴を鑑みると世界で一番の蓄積と緻密さがあるのかもしれない、などと考えつつ。いや実際に考えたのは帰宅後ですけれども。
そのような散歩でした。
隅田川・荒川・江戸川ってどういう位置関係?(1)
2020年の暮れ、用事のついでに歩いてみました。
これから書くことは、当該地域に住んでいる人にとっては片腹痛いもので、「知らなかったの?」と逆に驚くこともあると思います。
自分自身、横浜という遠くない所に住みながらこんなにも分かっていなかったのかと愕然としました。
隅田川・荒川・江戸川は東京湾に注ぐと思うけれど、どのように並んでいるのか?
江戸時代に下町と呼ばれたあたりの河口付近を歩いてみようではないか。
という訳で、歩いた順番をもうここに書いちゃいます。
隅田川 → (東西方向に伸びる小名木川を辿る) → 旧中川 → 荒川 → 中川 → (東西方向に伸びる新川を辿る) → 旧江戸川 → 江戸川
なんか、シンプルに3本の川を渡ることを想定していたら、中川というやつが新しく加わり、さらに新とか旧とかそれぞれの川に付いていて、たいへんでした。
まずは隅田川を渡り東へ向かいます。
この日は清洲橋を渡りました。
清洲橋の近くに江戸時代、東のお米や塩などを江戸へ運ぶために東西方向に掘った小名木川という運河がありまして、せっかくなので辿ります。
ちなみにここから1kmぐらい隅田川を北へ上ったあたりが両国で、江戸時代は武蔵と下総の国境だったから「両国」といったらしいですね。
どう見ても東京の真ん中やろと、今から見るとそういう場所ですね。
両国に近いからでしょう、高田部屋と尾車部屋が小名木川沿いにありました。
相撲部屋ってなんとなく和風建築をイメージしていたのですが、どちらの部屋もキュービックなマンション風でした。さすが都会です。
小名木川はキュービックな都心の建物の間を流れます。
東西方向に伸びる小名木川を辿っていると、南北方向に有名な河川以外の水路もあって、クロスしたりするんですね。
水門があったりして、なるほど水位を調整して街が守られているのですね(ざっくりとした理解)。
ずんずどんどん東へ歩きます。
てくてく
川のまっすぐさも住居の形も、四角くすると一番効率がいいよね、これが都心なんだね、と考えながら
やっと小名木川の西端です。
ここで旧中川と合流します。
この地点に中川番所があったそうです。
この旧中川を渡って土手を越えると、The 荒川となります。
大河なり、荒川。
船堀橋のたもとより。
さらに驚くことに、荒川のすぐ東を中川が並走しているのです。
川たち何やってるの?
荒川と中川が併走しているところをうまく収められなかったのですが、下の写真は中川、右側の高速道路の向こうが荒川です。
今回歩いてみてつくづく江戸は水都だと感じた訳ですが、この川の絡み具合は絶えざる治水事業の結果なのでしょう。
川は昔からそこにあったように見えるけれど、紆余曲折がありました。川だけに。