歴史の小径

食ブログで書ききれなかった歴史と散歩の話

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (3) お寺の移設の時代について

前回の記事で、動乱の時代を生きる父から子への思いという仮説をもって良い話のようにまとめたのですが、ここで再々度、豊顕寺の説明文を確認しましょう。

当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

 

上記の真ん中あたりに

青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ッ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。

とあります。

 

えっ、先祖の菩提と郷里の人々の救済のために建てたはずのお寺を移設するの?

 

A. お寺が遠くてお墓参りが面倒になったから。

→ ないですよね。うん、ない。

 

B. お墓参りもお寺の維持も困難になった。

→ おそらく。お寺なんて滅多に、特に長距離移動はできるものではないはずです。そこには余程の事情があったと考えられます。

 

当時の情勢から、お寺の維持が困難になったと思われる背景を考えましょう。

 

お寺を移設した時期について、豊顕寺の説明文ではこのように書かれています。

元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。

最初に読んだときは、元興は1532年から1555年まで青木城にいてその後に隠棲したのだと思ったのですが、文章のとり方によっては1532年から1555年の間のいずれかの時期に隠棲したとも取れます。

 

江戸時代後期(1800年代)に編纂された文献『新編武蔵風土記』がそうなっているのですよね。

天文年中よりこの地の領主となりしゆへ、かの本國にありし本顯寺を當所へ引うつして名を豊顯寺と改めしとぞ

天文年間が憎い。当時としては長いほうで1532年から1555年まで24年間あり、記録に「天文年間」とだけ書かれるとだいたい1世代分の幅になってしまうよ。

 

それでもネットで調べて行くと、豊橋からの移設は1536年説と1551年説があることが分かりました。

どちらかが間違いの可能性もありますが、移設のフェーズが2段階あったとも考えられます。

 

1536年の豊橋付近がどんなことになっていたかというと、1529年に松平清康(家康の祖父)が岡崎方面から侵攻してきて一気に松平勢力になったと思いきや1535年の暮れに急死し("森山崩れ")、混乱していたことでしょう。

横浜でそのような状態を聞いていた多米元興がお寺の移設を考えるのも無理ありません。

 

一方、神奈川区史と横浜市史稿によると移設の年は1551年ということになっています。

tesshow.jp

 

今回、そちらの説を主に掘り下げてみます。

なぜなら、2020年のNHK大河ドラマ麒麟がくる』に絡んでなかなか興味深いからです。すみません。

 

多米村は現在では豊橋市内になっていて、豊橋駅から東へ3~4kmの丘陵と谷戸の里です。

ピンポイントで1551年の豊橋の出来事をネットで見つけることはまだできていませんが、その年の前後で周囲の状況を見てみましょう。

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1547年、松平竹千代 (のちの徳川家康)が今川家に人質に送られる途中、護送に当たっていた戸田氏が反転して織田氏へ竹千代を送る。

 →この戸田氏の城が、多米の里に隣接する二連木城です。この当時、戸田氏と多米の里の関係はどうだったのかはネットで調べきれておりませんが、少なくとも1400年代末は対立関係にあったようです。1550年頃からこの近辺で活動していた戸田氏は「多米戸田氏」と呼ばれるようになっていて、一族が融合したか戸田氏が多米の里を領有したことが推測されます。・・・それがお寺の移転につながったと、自然に考えてしまいます。

 

1547年、織田信長濃姫が結婚。いや多米村と直接の関係は無いけど、間接的には影響があります。

 

1548年、多米の里から少し西にある岡崎で、小豆坂の戦い(第二次)。

 → 織田 vs 松平・今川 とするのが従来の説ですが、松平はこの戦いよりも前に織田に降伏して織田方になっていたのでは、という説もあります。

 で件の戸田氏はというと、前年の竹千代強奪(?)事件で今川義元がブチ切れ、田原城に拠る戸田氏は滅亡し、多米の里近くの戸田氏は今川に服属したようです。

 信長と濃姫の結婚は織田と斎藤道三の同盟を表し、織田氏三河で今川とぶつかる力を得たということになります。


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 いずれ、小豆坂の戦いは大勢において織田 vs 今川の戦いであり、位置的にその間にある松平氏や戸田氏をはじめ小勢力は「ええーー、どっちどっち?どっちに付けばいいの??」で揺れに揺れていたのは間違いありません。

 

1549年、前年の小豆坂の戦いの帰結として人質交換が行われます。大勢において今川が勝利し、竹千代は駿府へ送られました。

 

1551年、信長の父・信秀が死去し、尾張国は「うつけ」信長とその他の跡目候補で内紛が起こり混乱状態となります。これを見た今川氏はいよいよ尾張への攻勢を加速します。

 

 ー と、二大勢力の間で混乱の三河地方なのでした。

 

 この時代の多米の里の人々の具体的な動静が不明なのがもどかしいですが、お墓参りなんでできないどころか、お寺が荒れ果てて維持ができない状態だったのではないでしょうか。

 現在、多米の里にあったらしき本顕寺は、その場所すらも特定できていません。

 

以上、横浜を散歩していたふと見つけたお寺の説明文から、2020年大河ドラマまでつながった話でした。

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (2)

前回の記事では、横浜は三ツ沢の豊顕寺にある説明文から多米氏の足跡をイメージにしました。

もう一度説明文を載せましょう。


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当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

 

1行目はお寺の名称と宗派の説明ですのでここでは触れません。

 

問題は2行目です。

 

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。

 

横浜に城をもらう人が、同時に豊橋郷士ってありうるの?

戦国時代、あるいは後北条的にアリなの?

 

ていうか、郷士って何?

→調べました: 

 郷士(ごうし)は、江戸時代武士階級(士分)の下層に属した人々を指す。江戸時代、武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指す

(Wikipediaより)

 

どうやら江戸時代の言葉のようです。おそらく多米氏は自分ではそう名乗らなかったと思います。「村の領主」みたいに捉えておけばいいですかね。

 

この時代の社会制度について詳しくは知りませんが、「多米村の郷士多米元興」とされた背景について想像の範囲で具体的な可能性をいくつか考えてみましょう。

 

A. 多米元興は相模国にいたが、本籍的なものは豊橋という自覚があり、寺を建てた。

→ かもしれない。ただ、元興がどこで生まれたのか不明だけれど、父親が相模国で何年も活動しており、息子にそれほど豊橋との結びつきがあったのか、そして誰が元興を「郷士」的な人物とみなしたのかは疑問が残ります。

 

B. 1515年時点で多米元興は豊橋にいた。寺を建てたあとで横浜に来た。

→ 父親である元益が相模国でめっちゃ忙しく戦っているのに、なぜ息子は豊橋にいて、その後横浜へ行ったのかが引っかかります。別の息子(たとえば兄など)が父親に付き従っていたが、死んでしまったので元興が相模国へ行った、等は可能性として考えられます。

 

C. 1515年豊橋に寺を建てたのは、元興ではなく父親の元益のほうだった。

 → 伊勢盛時(北条早雲)との関わりから、元益と元興のおよその年代を考えるとこれがしっくりきます。村の領主階級だった人が別の土地で出世したけど、晩年に故郷の一族のためと先祖の菩提のために寺を建てたと。

 

D. 元益と元興は同一人物説。

 → 最初の説明文から、元興は少なくとも1555年までは生きていた (後日追記:説明文の解釈により、1555年まで生きていたとは限らない)。一方、伊勢盛時駿河の今川氏を訪ねたのが1487年で(1476年説もあり)、元益がそれに自分の意思で同行しているっぽい話もあるので、同一人物ならかなり長生き?ざっと80歳以上になる?大丈夫?(後日追記:説明文の解釈により、天文年間の始めまでは確実に生きていいたことは言える。1532年。微妙ですね)

 

E. 元益が息子の元興の名義で寺を建てた。

 → 伊勢盛時について行ったらどえらい展開になったけど、ぼちぼち自分も伊勢盛時の寿命も尽きるし時代はどんどん混沌としてきたから、息子と郷里とのパイプを確実にしておきたい。お寺を作って多米村の人々を救うのは、相模で活躍している多米元興ですよと。

 

Eであってほしいなあ。にわかにEのような気がしてきた。

動乱の時代で父から子に託した思い。

主観的にはこれです。

 

よし、妄想歴史物語としてはよい形にまとまった。

 

と言いつつ、まだ気になる部分もあり、興味のおもむくままに次の記事で書きたいと思います。

 


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写真は、とある日の豊顕寺の横の公園です。

気持ちの良い三ツ沢の丘からの眺めです。

お寺の敷地はこの写真の左側になります。

 

<後日注>

・現在の横浜市相模国武蔵国の境目で両方あり、表記が紛らわしい部分もありますが、雰囲気で読んでいただければ幸いです。ちなみに、横浜駅付近の青木城と豊顕寺は武蔵国領域になります。一方、草創期の後北条勢力が最初に取ったのが相模国領域です。

北条早雲伊勢盛時伊勢新九郎・・・同一人物ですがこの他にも様々な呼び名があります。ここでは伊勢盛時としました。

 

 

横浜の豊顕寺と多米氏のこと (1)

史跡にある説明を読んで、そのときは分かった気になるけれども、再び訪れて同じ説明を読むとまた「ふーん」と同じことを分かった気になる。

 

つまり理解していないのです。

 

文章が悪いのではありません。

 

その場では文章として理解した気になっていても、文章の中にある複数の要素が頭の中で結びついていなくて、場所を離れるとバラバラになってしまうのです。

 

せいぜい僅かに一つか二つの、印象に残りやすい単語が頭の片隅に残る程度になります。

 

まさにその例が、横浜市の三ツ沢にある豊顕寺(ぶげんじ)の説明でした。


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 いわく、

当寺は、法照山と号す法華宗陣門流総本山本成寺末の寺院です。

三河国多米村(現愛知県豊橋市多米町)の郷士多米元興は、先祖菩提のため永正12年(1515)多米村に本顕寺を建立しました。元興の父元益は、伊勢七騎の一人でした。(伊勢はのちに北条氏と称す)元興は天文年間(1532~1555) 北条氏が関八州を領有した頃、青木の地に城塞を構えていましたが、のちに連信斉と名乗り三ツ沢のこの地に隠棲して本顕寺を移し、豊顕寺と改称しました。元興の歿後、その子長宗は青木城を領し、元興の隠棲の地を当寺に寄進し、堂宇を造営したので地方には稀な巨刹となりました。

(前半部分。後半は江戸時代以降のことなので割愛)

 

文章に破綻はなく、構造にややこしい部分もありません。

にもかかわらず、私はここへ来て4度か5度はこれを読み、毎回「ふーん」となっていたのでした。

 

このたび、やっと掴めた気がしたので喜びお伝えする次第です。

 

豊橋から来た多米氏は、

元益 → 元興 → 長宗

と世代が移行したことが上記の文章からは読み取れます。

 

それじゃあ、こういうことかな?

 

I. 出会い

 多米元益が伊勢盛時(北条早雲)と出会って東へ行く。


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II. 世代交代

 多米元益 → 多米元興

 

多米元興、横浜駅近くの青木城をもらう。
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III. 世代交代

 多米元興 → 多米長宗

 

多米元興、青木城を長宗に託して、横浜駅から2kmぐらい離れた三ツ沢に寺を建て(豊橋から移設)隠棲する。


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IV. 多米長宗、三ツ沢付近の領地をお寺に寄進する。
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説明文から、破綻していないイメージはこれでよし。

うむ、このような捉え方で行こう。

 

と思ったのですが、ネットで調べると多米元益と元興が同一人物だったり、元興とその息子が同一人物とみなされていたり、元興の息子が複数いるようにも見えるけれども同じ人物と捉える組み合わせが複数あったりと、もうしっちゃかめっちゃかでドツボにはまりました。

 

上記に挙げた3代は、誰一人として正確な生没年が分からないんですね。

(その理由は、最初の写真で割愛した、江戸時代以降の火災や地震で檀林が途絶えたことが大きいと思われます)

 

まあ、やっと豊顕寺の歴史のイメージは掴めたので一旦ここで区切りまして、2020年の私の連休はこれでいいのです。

 

その他の気になった点は別の記事で改めて考察してみます。